162 幼女、抱き付く
ピッという電子音が鳴った後、不意にロケ車のドアが開かれて、穂乃香は思わず弄っていたタブレットを抱きしめて身構えた。
これまでの悠然とした様子とはまるで違い、警戒の色を強く見せた穂乃香に、ユラが『主殿、大丈夫、知っておる人間だの』と柔らかい口調で声を掛ける。
その言葉に穂乃香の緊張がわずかに緩んだところで、開いた隙間から、ひょこっと穂乃香の頭ほどのサイズのぬいぐるみが顔を出した。
「あ……」
見覚えのあるぬいぐるみに、穂乃香が声を上げると、ロケ車の外でそのぬいぐるみを支えているであろう人物が声色を変えて、ぬいぐるみに合わせたセリフを口にする。
「そこの可愛いあなた、アタシ達を助けてくれないかしら!」
そう言われて、穂乃香は目を丸くした後で吹き出した。
穂乃香は笑い止むと、コホンと小さく咳払いしてから、澄まし顔でセリフを返す。
「助けるって、どうしたらいいの? 私にできること?」
「もちろん、このステッキを受け取って!」
ぬいぐるみ越しの声がそう言うと、ぬいぐるみの横からアネモネのステッキが差し出された。
「これを受け取るのね?」
穂乃香はそう言いながら、差し出されたステッキを受け取る。
そこでようやくぬいぐるみの影で腹話術を披露していた人物がひょこりと顔を出した。
「こんにちはぁ、穂乃香ちゃん」
「こんにちは、千穂お姉ちゃん」
「すごいね、穂乃香ちゃん、セリフ完璧だったよ」
「千穂お姉ちゃんだって、フラッピーのセリフ完璧だったよ」
「まあ、何回も読み込んだからね、台本」
ロケ車の中、座席に二人並んで座る穂乃香と千穂の間には、先ほど寸劇の小道具としても活躍した妖精フラッピーのぬいぐるみが置かれている。
そこから言葉なく、わずかな時間を挟んだところで、千穂がおもむろに口を開いた。
「いよいよ放送されるねー」
どこか、気軽とは言い難い雰囲気を含んだ千穂の言葉の響きに、穂乃香は少し背を正して頷く。
「そう、ですね」
「あーごめんね、私の言い方で緊張させちゃったね」
穂乃香の変化に目ざとく気付いた千穂は苦笑してから、ごめんねと言いつつ、ぺこりと頭を下げた。
それから、改めて自分の伝えたかった言葉を口にする。
「穂乃香ちゃんに言いたかったのは、放送の前と後で、周りの反応が変わるってことを知っておいて欲しかったの」
「周りの反応……」
「うん、幼稚舎のお友達だけじゃなくて、きっとそのお父さんやお母さんも、今までとは態度が変わる……かな、穂乃香ちゃんの場合……」
言ってて、自分の意見に疑問を抱いた千穂が首を傾げた。
そもそもが、榊原家の孫娘という有名な巨大グループのお嬢様である穂乃香が、特別視されているだろう事は簡単に想像がつく。
特に子供たちの親や保護者は、穂乃香のことを知らないということはないだろうからと考えると、千穂が自分の言葉に首を傾げたのも仕方のない事だった。
とはいえ、穂乃香の同級生であれば、家の事情までは考慮していないだろうと考えをまとめて、千穂は言い直す。
「クラスの子のお父さんお母さんはわからないけど、穂乃香ちゃんのお友達は、プリッチに出てる子だと思って見てくる子も出てくると思うのね」
「はい」
千穂の発言は混乱と迷走をしているとはいえ、その根本は自分への心配なので、穂乃香は真面目な顔でコクリと頷いた。
「でも、たとえ周りの子がどう思っても、何を言っても、穂乃香ちゃんは穂乃香ちゃんだし、私達みたいにもう知ってる人間もいるんだから、変に悩まなくても……」
千穂は自分の経験を基礎にしつつ、穂乃香へのアドバイスをしているつもりだったが、だんだんと言葉に詰まっていく。
何しろ、相手は穂乃香である。
「って、まあ、いろいろ言おうと思ったけど、穂乃香ちゃんなら大丈夫そうだったわ」
そう結論付けてしまったのは仕方のない事だったが、結局力になれなさそうだと察して、無力を感じた千穂は肩を落とした。
「そんなことないよ」
囁き声の様なか細い声が響く。
それは千穂がこれまで聞いたことのない、穂乃香のモノとは思えない弱々しい声の響きだった。
「穂乃香ちゃん?」
つい直前に、自らの失敗で窮地に陥っている穂乃香は、自分の無力さを痛感している。
ゆえに、穂乃香なら大丈夫という評価に、彼女自身が疑問を感じていた。
その繊細な心情の変化に、千穂が気付かないわけがない。
千穂は脳裏に蘇ったロケ車に近づいた時のゆかりのセリフに今更ながら納得した。
『穂乃香お嬢様を頼みます』
今まで言われたことのなかったセリフに首を傾げたが、穂乃香の心情の変化を目の当たりにすると、その意味合いがよくわかる。
原因は何かなんてわからなくても、千穂は穂乃香が自信を失っていることを察することができた。
だからこそ、千穂はギュッと穂乃香を抱きしめる。
かつて自分が心無い言葉を掛けられた時に、母やあおいがしてくれたように、先輩として、大事な可愛い後輩に愛しさを目いっぱいに込めて千穂は抱きしめた上でに力を込めた。
「穂乃香ちゃんは強い子だし、何でもできる子だけど……ね」
語り掛けるような千穂の言葉に、穂乃香の返事はない。
だが、腕の中で動く気配が、千穂の言葉に耳を傾けようとしているのを物語っていた。
そんな穂乃香の感触を感じながら、千穂は言葉を紡ぐ。
「でもだからって、いつでも強くなければいけないことはないんだよ」
「…………」
「何でもできるからって、何でもしなくていいの」
優しくて甘い響きの言葉に、穂乃香は身を委ねそうになって、慌てて頭を振った。
穂乃香のその反応が何を意味するのか察した千穂は、更に腕に力を込める。
少し苦しい思いを穂乃香にさせているかもしれないけれど、千穂はそれでもはっきりと言いたかった。
「穂乃香ちゃん、頑張り過ぎだと思う。穂乃香ちゃんはまだ子供なんだから、うまくできないことがあって当然なんだよ」
事情を知らないはずなのに、ぴたりと心にハマる言葉を選んだ千穂に、穂乃香は驚いた顔を見せる。
「侮らないで欲しいなぁ。事情が分からなくたって、大好きな女の子がどんなことに心を痛めてるかくらいはわかるんだよ」
わずかに上げた穂乃香の視線を、千穂は柔らかくて力強い笑みで受け止める。
その力強さに、穂乃香は知らずにぽろぽろと涙をこぼしていた。
「ちほおねぇちゃん……」
涙声で、いつもより声が幼く聞こえる穂乃香が、自ら千穂に抱き付いてくる。
「よしよし、穂乃香ちゃん、よく頑張ったね」
千穂は柔らかい笑みを浮かべながら、自らの胸に顔をうずめた穂乃香の頭を優しい手つきでただ静かに撫で続けた。




