163 幼女、晴れる
「い、衣装なのに、ごめんなさい」
シュンとしてしまった穂乃香に、千穂は少し慌てた様子でフォローの言葉を掛けた。
「大丈夫、この衣装での撮影は終わってるから」
笑顔を添えて、ポンと叩いた千穂のトレーナーの胸には、点々と穂乃香の涙を吸い込んだ跡が付いている。
劇中の制服姿であれば気付いたであろうが、学園のシーンなのに私服だったせいで、穂乃香は衣装だと気付いていなかったし、そもそも精神的に弱っていたせいで注意力散漫だったのも手伝って、気持ちに背中を押されて、千穂に泣きついてしまった。
泣き止んで落ち着いた今ではそれがとてつもなく恥ずかしいので、穂乃香の顔はゆでタコのようになってしまっている。
「ま、とにかく気にしないで、最初に抱きしめたのは私だし?」
いつにもまして表情をくるくると変える穂乃香に意識を半分以上奪われつつも、どうにか踏みとどまった理性が千穂の抱き付きたい衝動を押し留めていた。
油断をすれば、ガバリと抱きしめてしまいそうだし、何よりも脳裏には弱ってるときこそ攻め時というヒマに任せて読んだ女性誌の文言がくっきりと浮かび上がっている。
千穂の鼻から漏れ出る空気の勢いが増していくが、しかし、ピンクに染まって固まってる穂乃香は反応を示していなかった。
その、事実が、千穂の理性を崩す。
「穂乃香ちゃん!」
ランランと血走った眼で千穂が穂乃香をロックオンした瞬間だった。
「お邪魔するよー!」
明るい声とともに、ガラッと音を立ててロケ車のドアがスライドする。
そこには、プリッチの衣装である制服姿のクルミが立っていた。
「穂乃香ちゃん、こんにちはっ」
明るい口調のまま、ピョンと跳ねるようにしてクルミが開け放たれたドアの前に立つと可愛らしく短めのスカートが揺れる。
今、秋口であり世間的には衣替えはもう少し先だが、撮影しているのは冬に放送するシーンなので、クルミが撮影用に身に着けていたのは冬制服だった。
赤をベースに黒と白の糸で織られたタータンチェックのスカートに、キャメルのブレザー、ブラウスはキャラごとに少し違うが、クルミの演じる菊花は丸襟の可愛らしいものを着ている。
更にブラウスとブレザーの間には、キャラクターカラーである黄色に近い山吹色のベスト、襟元には一年生を示す赤い大きなリボンがつけられ、膝上の短いスカートから延びる足は、くるぶし丈のソックスと茶色のローファーに包まれていた。
「ちょっと、ちょっと、2人っきりで何してるの?」
ただならぬ二人の様子に、軽い探りのつもりで軽口を放ったクルミだったが、思いがけない反応が穂乃香から返ってくる。
くるりと自分を振り返った穂乃香が、決壊寸前のダムの如く目にいっぱい涙を溜めていたのだ。
「ちょ、え、千穂、どういう事!?」
少し荒い口調で、ロケ車に駆け込みながら、穂乃香の肩に手を置いてその様子を確認する。
「大丈夫、穂乃香ちゃん?」
心配そうに声をかけるだけで、穂乃香のダムは決壊し、滂沱のごとき涙の滝が出現した。
「ええええ、大丈夫、ね、大丈夫だから、落ち着いて」
慌てふためきつつも、クルミは再び泣き出してしまった穂乃香を必死に宥める。
一方で、直前に欲望による暴走寸前まで到達してしまっていた千穂はただ呆然とするだけだった。
ロケ車の椅子をボックスシート状に回転させたクルミは、穂乃香と千穂の対面に座り腕組みをしていた。
「それは怖い思いしたねぇ」
ようやく落ち着いた穂乃香から言葉巧みにトイレの一件を聞きだしたクルミは、うんうんと頷きながらわかるわかると全身でアピールする。
「クルミお姉ちゃん」
精神的にダメージを負っている穂乃香は、ただ同意してくれるだけで心が救われる思いがした。
そんな穂乃香の横で、先ほどまで呆けていた千穂もさりげなくその頭を撫でる。
対面の千穂の気遣いを見て、クルミは大きく息を吐いた。
「ふーーーー」
急に長く息を吐いて見せたクルミに、自然と穂乃香の視線が動き、それが会話の開始を告げる合図となる。
「私も、この身長だからね……結構、怖いんだよね、大人のヒト」
いつも明るく、はしゃいでる風を見せているクルミの突然の告白に、穂乃香は少し驚いた顔を見せた。
「身長の高い人もダメだし、声の大きい人も苦手……正直言うと初対面の人も緊張する」
「……クルミ……お姉ちゃんが?」
驚きにはやや弱い戸惑いの感情で、穂乃香はクルミに尋ねる。
それに愁いを帯びた表情を浮かべたクルミが頷いて見せた。
「言っとくけど、普段の私はキャラ被ってるだけだからね、ほんとはとっても繊細な女の子なの」
澄まし顔でおどけて言って見せるクルミは、そこから少しトーンを落とす。
「できると思っていた自分が、ホントはできなかった時のショックはすごく大きいし、自分でもわからない震えがきたりもするわ」
クルミが口にする言葉に、穂乃香はピクリと肩を震わせた。
その反応を視界に捉えつつ、クルミは真剣にそして繊細に言葉を選ぶ。
「声を出せれば、それで解決できるとわかってても、声を出せない女の子は多いのよ」
クルミが口にしているのは、痴漢撃退についての話を応用したものだったが、今の穂乃香にはとても刺さった。
「でも、大きい人とか大きい声とか、私からしたら元から怖いものなわけだし、その時点で相手が卑怯なんだから行動できなくても仕方ないわ」
「……仕方ない……」
クルミの出した結論を、穂乃香は呆然としながらも無意識に繰り返す。
「そりゃそうよ、だって私達はか弱い女の子なんですもの」
そう言って笑って見せたクルミの一言は、穂乃香の中の黒い靄を一瞬にして晴らしてしまった。




