俳優が声優に向くとは限らない
ちょっと、もうそろそろ好い加減にして欲しいです。
幾年か前から、俳優が声優を遣る様に成った。私は其れを完全な間違いだと思っている。訴えられても好いから云うが、スタジオジブリが発端だ。有り得ない。確かに相応しい人は居た。然し、完全にミスキャストであるにも拘らず、ネームバリューで遣っていた。有り得ない。完全に有り得ない。正直言うと、私の方が巧い。根拠は、熱の入った歌を、アルバム三枚程連続で唄っていたからだ。其れだけの事をタレントが、俳優が遣っているのか? 遣って居ないぞ? 絶対に。だからして、売れようとしているのが見え見えなのである。
其処で一つ、好い例を挙げよう。『宮崎あおい』さん。彼女は、“魔法遣いに大切なこと”と云うアニメのヒロインを演じて居る。僅かに違和感を覚えるものの、ほぼ完璧に演じて見せた。判然云って、感動した。素晴らしいと思った。自身の在る可き位置をしっかりと理解し、其の上で、演じていた。其れは、人生を懸けてこそ出来る事であって、仕事として出来る事では無い。だからこそ、其の後も、声優として採用されたのである。『オオカミ子供の』と、云えば解るだろう。彼女は天才だ。持って産まれた資質が有る。だからこそ、ジ〇リの単簡なるキャストの選び方に非情な間違いを感じるのである。何にも巧く無い連中を、ネームバリューで遣っている。代表監督と、其の息子も、既に才能の限界に来ている。“貸して見なよ”と、云いたい。私は、之でも、五百本以上の映画を観て居る。そして、“このカット要るのかな”とか、判断出来るまでになった。不思議な事に、解る様に成るのだ。漫画なんか簡単だ。絶対的に必要の無いカットを直ぐに見分ける。レイアウトの間違いも直ぐに見分ける。詰まり、映画、アニメに於いても此処は削除した方が好いとか、こうした方が好いとか、簡単に解る様に成る。然し、自身の好みに因って、挿入するカットが有る。然も、其れを否定しない評論家。馬鹿馬鹿しい。私が其の世界に入れば、直ぐにツッコむ。例えば、新〇誠監督は何故評価されるのか? 簡単だ。彼は非常に美しい描写を省いて、かつ、美しい描写を真剣に描いているからだ。即ち、現実を描いているからだ。其れが出来るのは現在極小数だ。機を衒って人気の有る人の真似をしているだけなのだ。絵描きにしてもそうだ。例えば、“快楽天”の表紙を担当しているアーティスト。“裸婦”と云うイラストは他に観た事有るぞと云う女性、いや、少女の絵だった。其れに比べて、た〇みちさん。只のイラストに於いても女性の魅力を描いている。無論、裸像に於いては、テーマを於いた様な描き方をする。其処には必ず意味が有る。私も裸像を描くからして、無論、其の後、服を着せるが、だから、好く解る。裸像とは、描く可き必要の有るものであって、描かない絵描きは単なる“ヲタク”なのだ。そして、其れと同じく、“声”を美しく彩る事の出来ない監督は最低だ。簡単に俳優を遣うな。馬鹿馬鹿しい。売れたいのなら他の方法も有るだろう。オーディションを行え。通った者を遣え。タレントなら売れる。そんな事で映画界を汚すな。ジ〇リは間違い無い。止めろ。直ぐ様止めろ。最早、邪魔だ。声が欲しければ、私を呼べ。幾らでも、諳んじて見せるぞ。兎も角、ふざけた配役は止めろ。と、云いたい。宮崎あおいさんの熱演を目の当たりにすれば、如何にも今の配役が下らないと解るだろう。
声優はどれだけの修練を積んで来たのか、知った方が好いですよ。




