第4話 四時までの長い一日
月曜日は、朝から何もかも遅かった。
一時間目の現代文はいつも通り五十分で終わったし、二時間目の数学も、時計を見る限りは延長されていない。それでも私の中では、まだ二時間目なのか、という不満が育ちつつあった。
そのくせ、指名されると困る。
「柴崎さん。次、お願いします」
「四時です」
教室が静かになった。
黒板には、一次不等式が書かれている。
どう考えても、答えは時刻ではなかった。
「……すみません。もう一度、問題を見てもいいですか」
「もちろん。時計以外を見ましょうね」
先生の声に、隣の列でまどかが顔を伏せた。
私は教科書を持ち直した。指で押さえていた箇所は、幸いにも正しい。頭だけが、何時間も先へ出かけていたらしい。
休み時間になるなり、まどかが私の机へ来た。
「四時って、何?」
「旧館を案内していただくの」
「早坂先輩に?」
「うん」
「そっか。数学より先輩なんだ」
「数学の時間には、数学に戻ります」
言いながら、私は手帳を鞄の奥へしまった。
朝から何度も開くからいけない。
まどかは笑い、それから自分のノートを私へ向けた。見開きに、本の題名が十冊ほど並んでいる。
「私は今日、図書室。一年生向けのおすすめ棚、作らせてもらえそうなんだ」
「もう?」
「宮沢先輩に、何かやってみたいことはあるって聞かれたから」
初等部から通っていても、新しいことはあるのだ。
私は題名を上から眺めた。聞いたことのある本も、まったく知らない本も混じっている。
「まどか、これ全部読んだの?」
「半分くらい。読んでないのは、これから」
「お茶会のときに見せていただいた、昔の写真の本も?」
「あれは学院の資料。これは小説。ごちゃごちゃにすると、先輩に叱られる」
まどかはノートを引き寄せ、題名の隣に小さな星を書いた。
「小春も一冊くらい、選んでよ。図書室の場所は分かる?」
「それは、分かる」
「じゃあ迷子にはならないね」
「旧館でも、迷子になる予定はないよ」
先輩と一緒なのだから。
その最後の一言は、口に出さずにおいた。
四時の五分前、私は談話室の前にいた。
今日はお迎えする側へ並ばない。部屋へ入ったら、まず鞄を置く。先輩のお話を聞く。
決意を新たに扉を叩くと、中から『どうぞ』と声がした。
玲先輩は窓際のテーブルに、紙を何枚も広げていらした。
「ごきげんよう、柴崎さん」
「ごきげんよう。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。もう少しだけ待ってね」
先輩の傍らへ行く。
紙の端に『旧館見学』と書かれていた。その下には部屋の名前や、建てられた頃のことが、整った字で並んでいる。
私は鞄を置くのも忘れて、見入った。
「これ、先輩が作ってくださったんですか」
「覚えているつもりでも、確かめると違っていることがあるから。説明するなら、一度整理しておこうと思って」
私一人のために。
そう思ってから、いや、今後にも使う資料かもしれないと、自分を落ち着かせる。
どちらにしても、嬉しかった。
「ありがとうございます」
「まだ、ご案内していないわ」
「準備をしてくださったのが、嬉しくて」
先輩のペンが止まった。
窓から風が入り、紙の隅が持ち上がる。先輩はそこへ手を置き、ちょっと視線を落とした。
「……それなら、準備した甲斐があったわね」
私まで照れてしまい、急に鞄を持っていたことを思い出した。
椅子へ置いて、もう一度先輩を見る。
先輩も、私を見ていた。
「それと。こちらを、お先に」
渡されたのは、小さな封筒だった。
開くと、お茶会の写真が一枚入っている。
紙の花を背にした四人。まどかは口を開けて笑い、宮沢先輩も、カメラより少し横を見ている。玲先輩と私は、すっかり互いのほうを向いていた。
私の顔が、思っていたより楽しそうだった。
頬も、思っていたより赤い。
「よく撮れているでしょう」
「はい」
「会長が、皆さん自然に笑っていたとおっしゃっていたわ」
先輩が、ご自分の封筒を資料の下へ収めた。
同じ写真が、そこにある。
私だけの記念ではなかったのだと、当たり前のことが嬉しくなる。
「髪に何もついていなくて、よかったですね」
言ってしまってから、私は先輩を見上げた。
先輩の目が、少し細くなる。
「今日は、念入りに確かめてきたの」
「私に会うからですか」
「そうよ」
間を置かずに答えられて、こちらが困った。
私は写真を封筒へ戻すのに、二度も角を引っかけた。
談話室を出る前に、先輩は小さなカメラを首から下げた。
生徒会で使っているもので、今日は見学の記録を撮ってもよいことになっているらしい。
「お借りしたものだから、落とさないようにしなくてはね」
先輩はそう言って、ストラップを確かめた。
テープのことはあっても、物の扱いまで雑な方ではない。
私も手帳と鉛筆を持った。
先輩が資料を手に取る。
「では、最初に建物の形から。こちらが一階で、玄関から入ると、向かって右に談話室があるでしょう」
「はい」
「向かいが小会議室。その奥に階段があって、二階の廊下は東西に」
私は見取り図を回した。
窓のある側と、実際の窓のある側を合わせたい。
先輩も、私から見やすいように図を回してくださった。
結果、元へ戻った。
もう一度、私が回す。
先輩の指も動いた。
「……柴崎さん?」
「すみません。いま、私たちはどこにいるんでしょう」
出発する前から、迷子になっていた。
先輩は図を眺め、私の立っている場所を見て、それから紙をテーブルへ置いた。
「私が持つと、また回してしまいそうね」
「私もです」
「二人とも、親切だったのよ」
「地図には、あまり親切でなかったです」
先輩が笑った。
紙を置いてしまえば、図の右と部屋の右はきちんと一致する。私はようやく、玄関の位置へ指を置けた。
先輩が、その隣に指を添えた。
たったそれだけで、今度は別のところへ意識が行く。
今日は、どこを見るのにも練習が要るらしい。




