第5話 窓の向こうより、隣
最初の十分で、私は旧館の建った年代と、その後に増築された部分と、床の板が何度か張り替えられていることを知った。
先輩の説明は、分かりやすかった。
資料も見やすい。声は綺麗だし、私が頷くまで待ってくださる。
困ったことに、私は途中から、その待ってくださる顔ばかり見るようになっていた。
「……ということで、この部分は当初のままではないのだけれど」
「はい」
「柴崎さん」
「はい」
「いま、床ではなく、私を見ていたでしょう」
私は床を見た。
間に合わなかった。
玲先輩が、資料を胸の前へ下ろす。
「退屈だったかしら」
「違います。そういうことではなくて」
むしろ、困るくらい楽しい。
そこまで言える勇気はなかったので、私は別の、同じくらい本当のことを言った。
「あの窓のところへ、行ってみてもいいですか」
踊り場に、午後の光が落ちていた。
先輩が振り返る。
「もちろん。そこをご覧になりたかったのね」
「はい。でも、先輩が説明してくださっていたので」
「途中で聞いてくださっていいのよ」
「どの途中なのか、分からなくて」
先輩は、手の中の紙へ目を落とした。
そこには、まだたくさんの項目が残っている。
「……私、少し張り切りすぎたかもしれないわね」
「私も、ちゃんと全部覚えようとしていました」
「あとで試験はしないわ」
「よかったです。床が何年だったか、もう怪しかったので」
先輩が吹き出した。
私は一段先の階段へ上がり、それから振り返った。先輩も資料を閉じて、ついてきてくださる。
窓の前へ出ると、細長い色ガラスを通った光が、廊下の端に重なっていた。
黄色と、薄い青と、少し濃い赤。
思っていたより、淡い。
私は手のひらを光の上へ出してみた。指先が、青くなる。
「今日は晴れていて、よかったわね」
玲先輩が隣へ立った。
その白い袖の端にも、細い黄色の帯が落ちている。
「時間によって、違う場所へ動くんですか」
「ええ。もっと早い時間なら、階段の途中にも」
「それも、見てみたいです」
「朝はこの辺りを通らない?」
「まだ、旧館に入っていい時間がよく分からなくて」
先輩は、玄関に利用時間の札があることを教えてくださった。授業のない部屋なら、使われていないときに見に来ても構わない。ただし、部屋を使うときは担当の先生に申し込む。
それを聞いて、私はまた窓を見る。
特別な行事がなくても、この色の下へ来ていいのだ。
「写真に撮っておきましょうか」
先輩がカメラを持ち上げた。
私は急いで横へ避ける。
「柴崎さんも、そこにいて」
「私もですか?」
「ええ。どのくらいの高さまで光が来ているか、分かるから」
なるほど、と納得した。
それなら、私は窓辺の目盛りである。
姿勢を正して待つと、先輩がカメラの向こうで笑った。
「そんなに真っ直ぐでなくていいのよ」
「目盛りが曲がったら、困りませんか」
「目盛り?」
私は、説明しなくてもよかったことまで説明した。
先輩は一度カメラを下ろし、肩を揺らす。
撮られるより先に、笑っていただく仕事が増えた。
ようやくシャッターが切られた頃には、私もすっかり、普通に立っていた。
「次は、先輩を撮ってもいいですか」
「私を?」
「はい。私だけ目盛りになるのは、その、不公平なので」
「では、交代しましょう」
先輩は首からストラップを外し、私に掛けてくださった。
カメラの小さな画面に、玲先輩が映る。
窓辺に立ち、両手を前で揃えている。とても綺麗だった。綺麗すぎて、このまま学院案内の表紙にしてもよさそうだ。
私は指をシャッターに置く。
けれど、押す前に言ってしまった。
「……もう少し、自然に」
先輩の眉が上がった。
お茶会で、私が言われた台詞だった。
先輩は少し考え、私と同じように肩を下げた。
「自然って、難しいのね」
私は笑った。
先輩も笑って、その瞬間を撮ることができた。
二階の小部屋には、昔の校舎の写真や、学院の行事をまとめた冊子が並んでいた。
宮沢先輩が整理を手伝っているというのは、ここらしい。
玲先輩は入口の札を確かめてから、扉を開けた。
「今日は使う方がいないから、少し見せていただきましょう」
奥には木の机があり、手前の棚には『閲覧用』と書かれた複製の写真帳が置かれている。
私は一冊を両手で持ち上げた。
重い。
思わず先輩を見ると、すぐに机の上を空けてくださった。
「そのまま運んで。ゆっくりでいいわ」
「今日は息をします」
「ぜひ、そうしてね」
並んで椅子へ座る。
ページを開くと、昔の談話室が写っていた。お茶会のときに想像した黒板は、私が思っていたのとは反対側にある。
「窓側の席、見つけました」
「どなたか、外を見ている?」
「写真では、皆さん前を向いています」
「先生もいらっしゃるもの」
次のページには、運動会の写真があった。
長いスカートの生徒たちが、何かを引っ張っている。
綱引きだと分かった瞬間、私は少し安心した。
この学校では、昔から全員が静かに紅茶を飲んでいたわけではない。
「こちらの方、すごいお顔をされていますね」
「勝ちたかったのでしょうね」
「勝ったんでしょうか」
「残念。次のページは別の行事だわ」
私はもう一度、全力で綱を引く生徒を見た。
この人にも、好きな教科や苦手な先生がいたのだろうか。
立派な建物と同じくらい、そのことが急に気になった。
「さっき、床の年代を全部覚えようとしていましたけど」
「ええ」
「こういうのを見ていると、ここに普通の生徒がいたんだなって、分かります」
「今も、いるでしょう」
先輩が私を見た。
私は少し笑って、頷いた。
「そうですね。お茶会のお客様なのに、お迎えしてしまう人も」
「飾りつけが終わらなくなる人もね」
写真帳の脇で、先輩の指が私の指に並ぶ。
触れはしなかった。
それでも、次のページをめくるのが、惜しかった。




