第3話 月曜日に、またここで
お茶会が終わると、談話室は少しずついつもの静けさへ戻っていった。
片づけを手伝う一年生もいれば、部活の見学へ向かう子もいる。まどかは宮沢先輩と、図書委員の活動の話をすることになったらしい。
「小春は、どうする?」
「もう少し、お手伝いしていく」
「じゃあ、また月曜日ね」
まどかが鞄を肩へ掛ける。
私は頷き、ついでに声をひそめた。
「あとで、写真のこと、聞いてもいいと思う?」
「写真?」
「今日の。いただけるのかなって」
「思うよ。欲しいって言えば」
「そうだよね」
「私から聞いとこうか」
「ううん。自分で聞く」
まどかは少しだけ笑って、宮沢先輩のあとについていった。
私は二人を見送ってから、テーブルへ戻る。
玲先輩はカップをトレーへ集めていた。
「柴崎さんも、お帰りになって大丈夫よ。今日は来てくださって、ありがとう」
「私も片づけます」
「でも、お客様なのに」
「……片づけの見学も、希望します」
先輩の指が、取っ手にかかったまま止まった。
「旧館の見学?」
「はい。中でどんなふうにお茶会を開いているかも、分かりますし」
苦しい言い訳だった。
私にはもう、お茶会がどんなものか大体分かっている。いま分からないのは、先輩ともう少し一緒にいたいとき、何と言えばいいのかということだけだ。
玲先輩はトレーを私のほうへ向けた。
「それなら、こちらをお願い。カップは重ねずに、このまま準備室へ」
「はい」
許可が出た。
私はトレーの縁を両手で持ち、そっと持ち上げた。
カップが六客。
丁寧に運べば大丈夫な重さだ。でも、少し動くたびに、受け皿の上でかすかな音がする。
私は肘を固め、ゆっくりと歩き始めた。
一歩。
もう一歩。
「柴崎さん」
「はいっ」
「そんなに息を止めなくても、大丈夫よ」
言われてから、息を吸った。
胸を動かすと、腕まで動く。
かちゃり、と鳴ったので、また止めた。
先輩は黙って、私の歩く先の扉を大きく開けてくださった。
準備室の流しの脇へトレーを置き終えたとき、私は、ちょっとした仕事を終えた気持ちになっていた。
後ろから来た先輩が、もう一つのトレーを隣へ置く。
音は、ほとんどしなかった。
「……先輩は、お上手ですね」
「最初は私も、ゆっくり歩いていたわ」
「いまは、ずいぶん速く歩けるようになられたんですね」
先輩が私を見た。
私は自分の言い方を、頭の中でもう一度聞き直した。
「カップを持って、です」
「ええ。歩く練習そのものではなくてね」
先輩は堪えきれなくなったように笑った。
今日は何度も笑っていただいている。
狙ってできたものは、一度もなかった。
準備室には、古い棚と、新しい流し台があった。
昔から使っているように見える部屋でも、蛇口は私の家とよく似ている。戸棚には布巾のほか、食器用洗剤の詰め替えまで入っていた。
当たり前だ。紅茶のカップは、雰囲気だけでは綺麗にならない。
私は袖をまくり、先輩から受け取ったカップを拭いた。
先輩が洗い、私が拭く。
ときどき、窓の向こうから運動部の声が聞こえる。水を止めると、その声が少し近くなった。
「今日は、疲れたでしょう」
「少し。でも、楽しかったです」
「それなら、よかった」
玲先輩は洗い終えたカップを、次の受け皿と並べた。
私は布巾の乾いているところを探しながら、気になっていたことを聞く。
「早坂先輩は、こういうお茶会を、何度もされているんですか」
「生徒会のお手伝いをするようになってから、何度か。去年は先輩について、準備を教えていただいたの」
「花を作ったりも?」
「そのときは、切ってある紙を運ぶ係だったわ」
「……作るのも、お好きなんですよね」
「好きよ。上手かどうかと、好きかどうかは、少し違うでしょう」
私は拭いていたカップを、棚に戻した。
先輩の言葉が、ふと思い当たる場所へ届く。
ここへ入学すると決めてから、私は何かにつけ、ちゃんとできるだろうかと考えていた。
挨拶も、授業も、友達と話すことまで。
でも、先輩は小さくなった紙の花を、扉の脇に飾っていた。
鉛筆を並べる話を笑って聞いてもらえたのが、今になって、また嬉しくなった。
「柴崎さん?」
「あ、いえ。私も、そういうことなら、いろいろあります」
「今度、教えてね」
その今度が、とても自然だった。
次はいつ会えるのか、こちらから尋ねなくてもよかった。
テーブルクロスを畳むのは、カップを運ぶより簡単なはずだった。
ところが、私はここでも張り切った。
大きな白い布の両端を、二人で持つ。玲先輩に『こちらへ合わせましょう』と言われ、私は向こう側へ歩いた。
先輩も、私のほうへ来てくださった。
お互いが相手へ渡そうとした結果、布の真ん中が床へ垂れた。慌てて両手を高く上げる。
今度は、目の前が真っ白になった。
先輩の顔が見えない。
「……柴崎さん、いらっしゃる?」
「おります」
白い壁の向こうで、先輩が笑った気配がした。
「いったん戻りましょうか。私が動かないから、こちらへ来て」
「はい」
今度は、ちゃんと向こう側へ行った。
先輩が持つ角へ、私の持つ角を合わせる。布の端を受け取る指が、私の指に少し触れた。
私は目を上げないまま、残りの角も渡した。
「できたわね」
「……布を半分にするだけで、すみません」
「私も半分、同じことをしたわ」
先輩はそう言って、私に短くなった布の端を渡した。
次はもっと簡単だった。
私が手を出すのを先輩が待ち、先輩が布を返すところへ私が手を添える。
最後の一枚を畳み終えた頃には、私は布巾と同じくらい気軽にクロスを扱えるようになっていた。
先輩と向かい合うことには、まだ慣れなかったけれど。
畳んだクロスを棚へ運ぼうとしたところで、葉山先輩が談話室へ戻ってきた。
「二人とも、ありがとう。だいぶ早く済んだわね」
私は慌てて背筋を伸ばした。
会長は私の手元にある、最後のクロスを見た。
「柴崎さん、玲とは予定のお話ができた?」
「あ、まだ……」
玲先輩がこちらを見る。
「月曜日の放課後は、どうかしら。まずは旧館の中を、一緒に見て回れたらと思うのだけれど」
私はすぐに頷きそうになり、一度止まった。
すぐに『はい』と言いたかったけれど、まずは予定だ。
クロスを棚へ収めてから、鞄の中の小さな手帳を取り出す。月曜日には、母に頼まれた買い物も、病院の予約もなかった。
「大丈夫です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。では、四時にこのお部屋で」
玲先輩が私の手帳を覗かずに待っている。
私は、月曜日の欄へ書き込んだ。
四時。旧館。早坂先輩。
最後の名前だけ、少し丁寧な字になった。
「これからの案内当番も、この組み合わせで進めてよろしい?」
葉山先輩が、私たちを交互に見た。
玲先輩はすぐには答えなかった。
私のほうを向いて、穏やかに返事を待ってくださる。
「……はい。ぜひ」
言うと、先輩も頷いた。
「私も、お願いいたします」
会長が名簿へ印をつける。
それだけだった。
音楽が鳴ることも、誰かが拍手することもない。
けれど私は、もう一度、手帳の名前を見たくなった。
「それから、写真は週明けに人数分、印刷しておくわね」
葉山先輩が続ける。
私は顔を上げた。
「いただけるんですか」
「もちろん。せっかく撮ったもの」
「ありがとうございます」
今度のお礼は、さっきより少し大きな声になった。
玲先輩が、私を見て微笑んでいた。
飾りを外すと、談話室の入口は急に広くなったように見えた。
残った紙の花は、潰さないよう箱へ集めていく。来月のお茶会でも、使えるものは使うのだそうだ。
私は扉の内側に留まっていた、小さな花を外した。
先輩が作った、芯のぎゅっとした花だ。
指に載せると、さっきより少しだけ、花びらが開いていた。
「早坂先輩」
「なあに?」
「これ、一つ、いただいてもいいですか」
先輩は私の指先を見た。
「それを?」
「はい」
「もっと綺麗にできたものも、あるけれど」
私は箱の中を見て、それから、手の上の花を見た。
「これがいいです。さっき、一緒に飾ったので」
玲先輩は何もおっしゃらなかった。
私が顔を上げると、少し驚いたようにこちらを見ている。
「……だめですか?」
「いいえ。私の作ったものだから、喜んで」
先輩は箱の下から、余っていた薄紙を一枚取り出した。
小さな花を載せ、潰さないように端を折る。私は両手で受け取った。
「来月は、もう少し上手に作れるといいのだけれど」
「私は、こちらも好きです」
「ええ。さっきも、そう言ってくださったわね」
先輩の声が、いつもより少し小さくなった。
私は今さら、自分が同じことを二度言ったと気づいた。
顔が熱くなる。
花の話だ。
それは、お互いに分かっている。
分かっているのに、私は薄紙の端を意味もなく揃えた。
教科書を少し片側へ寄せて、鞄のいちばん上に花の包みを収める。最後にもう一度中を確かめてから、留め具を閉じた。
旧館の玄関で、私は靴を履き替えた。
玲先輩は戸締まりの確認をしてからお帰りになるという。生徒会長も一緒に残るので、私はここでお別れだった。
「今日は、ずいぶん手伝っていただいてしまったわ。ありがとう」
「私こそ、ありがとうございました」
そのまま帰ればいいのに、私は鞄の持ち手を握り直した。
先輩が少し首を傾げる。
「何か、忘れ物?」
「いえ」
私は談話室の入口を見た。
花のなくなった掲示板。片づけられたカップ。たった一時間ほど前まで緊張して座っていた椅子が、今はテーブルの下へきちんと収まっている。
「先輩とご一緒できて、嬉しかったです」
言った。
言えてしまった。
私は慌てて、少し頭を下げた。
「月曜日も、よろしくお願いします」
「……ええ」
先輩の返事が、ほんの少し遅れた。
顔を上げると、口元に柔らかい笑みがある。
「私も、今日ご一緒できて嬉しかったわ。柴崎さん」
胸の内側が、きゅっとした。
この方の名前を手帳に書けることが、こんなに嬉しい。
「では、ごきげんよう」
「ごきげんよう。気をつけてね」
私は玄関の扉を開けた。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「柴崎さん」
振り返る。
玲先輩は、さっき私が脱いだ上靴を指していた。
「こちら、靴箱へ入れてからでも、お帰りは間に合うわ」
私は戻った。
優雅に別れるには、まだ少し、練習が必要らしい。




