第2話 憧れの席は、落ち着かない
登場人物紹介
◆宮沢 奏
白藤女学院・高等部二年生。図書委員で、玲の友人。
旧館に残る写真帳や学院の資料の整理にも関わっている、本好きの先輩。まどかの案内当番を担当し、本の紹介を手伝う。
穏やかに話を聞いてくれるが、増え続けるおすすめ本には的確な一言が飛んでくる。見学者の役を演じても、真っ先に本を見に行ってしまう。
私の席は、玲先輩の隣だった。
丸いテーブルに椅子が四脚。向かいにはまどかと、丸い襟のブラウスがよく似合う上級生が座っている。
「図書委員の宮沢奏です。どうぞよろしく」
「三枝まどかです。よろしくお願いします」
「し、柴崎小春です」
名乗るだけで、なぜ詰まるのだろう。
私は自分の名前を十五年間使ってきた。入学試験の面接でも、もう少し滑らかに言えたはずだった。
隣の玲先輩が、椅子を少し引いた。
「鞄、ここへ置きましょうか。足元が狭いでしょう」
「ありがとうございます」
私が身を縮めていたのは鞄のせいではなかったけれど、置き直しているあいだに少し落ち着けた。
葉山先輩の声が、部屋の前から聞こえた。
「本日はお集まりいただいて、ありがとうございます」
談話室のあちこちで話していた声が静まる。
葉山先輩は一年生の顔を順に見てから、薄く笑った。
「私もお茶が冷めるのは困るので、ご挨拶は短くいたします」
いくつかの席で、小さな笑い声が上がった。
今日の席は、見学したい場所や活動の希望に合わせて決めたものだという。まずは同じテーブルの先輩と話し、今後の放課後の予定を相談することになる。
まどかは図書室、私は旧館。だから、ここなのだ。
玲先輩が旧館を案内してくださるのだと知って、私はカップの取っ手を見つめた。
私はただ、窓や階段を見てみたかっただけなのに。
「では、どうぞ召し上がって。お菓子が足りなくなったら、準備室にありますので、遠慮なく」
挨拶が終わると、玲先輩はティーポットを手に取った。
「少し熱いかもしれないから、気をつけてね」
カップに紅茶が注がれる。淡い色の水面から、甘い香りが立ち上った。
私が知っているものより、ずっといい匂いがする気がする。
「いい香りですね」
「そう? 駅前のお店のものよ。飲みやすいかしらと思って」
先輩が口にしたのは、私も母と行ったことのある店の名前だった。
たぶん私は、カップや先輩の横顔まで一緒に嗅いでいたのだ。
受け皿を持ち上げようとして、一度置く。
玲先輩が、私を見た。
「何か気になる?」
「いえ。その……」
まどかが隣の宮沢先輩と話しながら、普通にカップを口へ運んでいる。
そう。あれでいいはずだ。
けれど私の右手は、なぜか卓上で待機を続けていた。
「お茶の飲み方に、学院だけの決まりがあったりしますか」
尋ねると、玲先輩は一瞬きょとんとした。
「学院だけの?」
「はい。先輩がお飲みになるまで待つ、とか」
聞こえていたらしい宮沢先輩が、顔を上げた。
「それだと、こちらのテーブルは誰も飲めなくなりそうね。玲と私は同学年だから」
「どちらかがお譲りになれば……」
「お先にどうぞ、玲」
「いいえ、奏こそ」
「私はいつでも」
「私も待てるわ」
お二人は、涼しい顔で見つめ合った。
まどかが、お菓子へ手を伸ばす。
「じゃあ私が、先にいただきます」
薄いクッキーが、ぱきりと鳴った。
宮沢先輩が吹き出し、玲先輩も肩を揺らす。
「そういう決まりはないわ。柴崎さんも、どうぞ」
「……はい」
私はカップを持ち上げた。
紅茶は熱かった。
少し冷ましてから飲めばよかった。学院だけでなく、どこででも通じる知識を、緊張すると忘れるらしい。
先輩が何も言わず、自分のカップを受け皿へ戻した。
次に手を伸ばしたのは、私がもう一度口をつけたあとだった。
気づいて、胸のあたりが少し温かくなる。
これはたぶん、紅茶だけのせいではない。
「旧館の、どのあたりをご覧になりたいの?」
尋ねられて、私は窓のほうを見た。
「まだ、よく知らなくて。入学式の日に外から見たとき、ここだけ窓の形が違うなと思って」
「ええ」
「あとは、階段です。入口から少しだけ見えたので」
「踊り場の窓ね」
玲先輩の声が、わずかに明るくなった。
談話室の窓は、上の角が丸くなっている。昇降口の向こうに見えた階段の窓は、もっと細長く、色のついた小さなガラスが並んでいた。
ここへ通えるのだと思うと、入学式の日は嬉しかった。
その気持ちを話すのは、少し幼いような気もする。
「古い写真と見比べると、面白いのよ。昔は、このあたりも教室だったから」
「この部屋が?」
「そう。お茶を飲んでいるところで、授業を受けていた方がいらっしゃるのね」
私はテーブルを見下ろした。
窓の外を見て、黒板のあった場所を勝手に想像する。
「それなら、窓側の席の方は、授業中もこんな景色を見ていたんですね」
「柴崎さんも、見てしまいそう?」
「……見ないとは、言えません」
「正直なのね」
笑われて、私はクッキーの皿を手前へ引いた。
先輩の前で、もう少しいいところを見せられないものだろうか。
宮沢先輩が、まどかに小さな冊子を見せていた。旧館に置かれた学院の資料も、図書委員が整理を手伝うのだそうだ。
「そちらに昔の写真もあるから。今度、一緒に見にいらっしゃい」
「ありがとうございます」
まどかが頷き、私のほうへ冊子を開いて見せた。
昔の校舎の前に、生徒が何人も並んでいる。制服の形は今と少し違う。でも、端のほうに写る二人だけが顔を寄せて、何かを話していた。
「ここ、小春みたい」
「写真を撮るときは、ちゃんと前を向くよ」
「昨日のクラス写真、私に何か言ってたじゃん」
「まどかが目を閉じてたから、呼んだの」
「おかげで私は、目を開けて写ってた」
私は口を開けて写っている。
そう言おうとしてやめた。目の前には、憧れの先輩がいるのだ。
まどかは、たぶんそこまで含めて私を見ていた。
お茶を飲み終える頃、葉山先輩が小さな箱を持って各テーブルを回ってきた。
「もう少しお話ししやすいように、質問を用意してみました。ひと組に一枚ずつ、どうぞ」
折った紙が何枚も入っている。
隣のテーブルでは『学院で気に入っている場所』と読み上げる声が聞こえた。
私と先輩はもう、その話をしてしまった。
そう思うと、少しだけ嬉しい。
宮沢先輩とまどかが先に一枚引き、顔を見合わせて笑った。私は玲先輩に勧められ、箱の隅の紙を取った。
開く。
『お二人に共通するところを、一つ見つけてください』
私は紙を閉じかけた。
隣の席の組が引いた『得意な教科』に替えていただけないだろうか。そうすれば、私は先輩のお話を静かに聞いていられる。
玲先輩は身を寄せて、私の手元を覗いた。
黒髪が、肩の近くで揺れる。
「共通するところ、ね」
ありますか。
口に出しかけて、やめた。
先輩は落ち着いていらっしゃる。私は、落ち着こうとすればするほど、普段しないことをする。
先輩は何人もの名前と予定を覚えている。私はここへ来るだけで、案内の紙を五回見た。
綺麗なものが好き、というのは共通点だろうか。でも、それは、この学院の生徒なら、たいていそうなのではないか。
「まず、旧館が好きね」
玲先輩が言った。
「あ……はい」
「私も初等部の頃は、窓の外から眺めていたの。何をするお部屋なのかしらって」
私は先輩を見た。
小さい頃の姿を想像してみる。背伸びをして、窓の中を覗く女の子。
それなら少し、私と似ているかもしれない。
「あとは、準備をしていて、時間を忘れることがありそう」
「先輩もですか?」
「見ていたでしょう。さっき」
私は吹き出しそうになって、慌てて唇を結んだ。
先輩は平然と、紙の花が並ぶ扉を見た。
「ここは人が通るから、華やかなほうがいいと思って。皆さんが来るまでに、もう一つ、もう一つ、と」
「分かります。私も昨日、筆箱を新しくしようと思って、中を移していたら」
「遅くなった?」
「母がお風呂から出てきました」
「鉛筆がたくさんあったのね」
「十本です。色の順に並べ直していたら、三十分くらい」
玲先輩が笑った。
私も、今度は一緒に笑えた。
あれは丁寧な暮らしだったのではない。先に寝る準備をすべきだったのだ。
「それと」
玲先輩は、少し声を落とした。
「緊張すると、手を動かしたくなるところも」
私は膝の上に置いていた手を止めた。
紙ナプキンの角を、折ったり戻したりしていた。
先輩の指先にも、使い終えた菓子の敷き紙があった。四隅が内側へ折られている。
「……先輩が、緊張されるんですか」
「初めてお会いする方とお話しするのは、いつも少し」
机の下で、私の両足が揃った。
「全然、そうは見えません」
「見えないようにしているもの」
先輩は敷き紙を置き、少し困ったように笑った。
その笑い方も、私は好きだと思った。
共通点の紙を、もう閉じたいとは思わなかった。
「では、お話しできたところから、どなたか教えてくださる?」
葉山先輩が部屋を見回した。
各テーブルから、同じ部活に興味があるとか、朝が苦手だとか、いろいろな答えが上がった。人前では静かだと思っていた一年生も、先輩と目を合わせて笑っている。
私たちの順番が来た。
「共通点でしたね。どんなところが見つかったのかしら」
私は立ち上がりかけた。
玲先輩の手が、そっとテーブルの端に置かれる。
「座ったままで大丈夫よ」
「は、はい。私たちは、その、細かい作業をしていると、時間を忘れるところが」
ここまではよかった。
「早坂先輩はお花を飾るのに夢中になって、私は鉛筆を並べるのに夢中になっていました」
向かいで、まどかの肩が揺れた。
「それから、お二人とも旧館がお好きなのね?」
葉山先輩に尋ねられ、私は頷いた。
「はい。今度、早坂先輩にお見せいただけるのが、楽しみです」
先輩がこちらを向いた。
私は、しまった、と思った。
正式な予定はまだ、何も決めていない。
でも先輩は微笑んで、会長へ向き直った。
「私も楽しみにしています」
まどかの肩が、今度は別の理由で揺れた気がした。
私は膝の上で、もう一度ナプキンの角を折った。
最後に、テーブルごとの写真を撮ることになった。
葉山先輩がカメラを持ち、私たちは飾りつけた扉の前へ並んだ。宮沢先輩が私たちの鞄を、写真に入らない場所へ寄せてくださる。
まどかと宮沢先輩、その隣に玲先輩と私。
「柴崎さん、肩に力が入っているわ」
会長に言われて、私は肩を下げた。
「もう少し、自然に」
自然とは、どうしていることだっただろう。
考えているうちに顎が上がったらしく、まどかに、ちょっと下、と言われた。
私は首だけを戻す。
玲先輩が、そっと声をかけた。
「柴崎さん」
「はい」
「私の髪に、何かついていない?」
思わず隣を見た。
先輩の髪は、綺麗に整っている。
何もついていない。
先輩は真面目な顔で、こちらの返事を待っていた。
私は唇を結ぼうとして、失敗した。
先輩の目元も、柔らかくなる。
「はい、そのまま」
シャッターの音がした。
私はまた、写真を撮るときに前を向けなかった。
今日の一枚は、昨日のものより、ずっと欲しいと思った。




