第2話 森番の娘
森番小屋から村へ下りる道は、細くて湿っている。
朝の土は靴底にやわらかくつき、草の葉についた露が外套の裾を濡らした。ミナは歩きながら、腰の縄を指で押さえ、小刀の柄が引っかかっていないか確かめた。
森へ入る日は、いつも道具を確かめる。
小刀。縄。火打ち石。乾いた布。薬草の小袋。木札。弓弦。小さな釘が三本。
釘は、できれば使いたくない。
村では釘も貴重だ。抜けたものを拾って、曲がったものを叩いて、まだ使えるなら取っておく。新しい釘を気軽に打てる家など、ミストル村にはあまりない。
「……水、やっぱり少し流れが鈍い?」
ミナは村の畑へ向かう前に、水路の脇で足を止めた。
森番小屋の下を通る細い水路は、村の畑へ水を回すためのものだ。春先に村の大人たちでさらったが、夏の終わりが近づくと、草の根や泥がすぐたまる。
水は流れている。
止まってはいない。
けれど、いつもより音が重い。
さらさらではなく、ぬる、と引っかかるような流れ方をしていた。
ミナはしゃがみこみ、枝で水路の端をつついた。沈んだ草が、泥と一緒にゆっくり浮く。
「草と泥……あと、根っこかな」
大騒ぎするほどではない。
けれど、放っておくとよくない。
今は目印だけでいい。
ミナは道具袋から小さな木札を一枚取り出した。端を小刀で少し削り、溝の横の湿った土に刺す。
目印だ。
ここは後でちゃんと見る。
「水路も、畑の柵も、南の罠も……」
指折り数えかけて、途中でやめた。
数えると増える気がした。
村には、後でやることが多すぎる。
ミナは立ち上がり、黒枝の森との境界へ向かった。
ミストル村は、森に近すぎる。
村の畑のすぐ先に低い柵があり、その先に草地があり、さらにその向こうに黒枝の森が沈んでいる。遠くから見れば、村と森は分かれているように見える。けれど実際には、獣道が何本も村の方へ伸びていて、風で倒れた枝が柵をまたぎ、夜になれば森の匂いが畑まで降りてくる。
畑の端に立つと、村の匂いと森の匂いが混じる。
煙と干し草。湿った落ち葉と、獣の匂い。
昨日は畑の外だったものが、今日は柵のすぐ横まで来ていることもある。
だから、毎朝見る。
見ないと、あとで誰かが畑で驚く。
ミナはまず、畑の端の柵を見た。
一番南の杭がゆるんでいる。昨夜の風か、猪が鼻で押したのか、誰かがまたいだのか。
ミナはしゃがんで、土の崩れ方を見た。
「……猪じゃないね」
猪ならもっと土をえぐる。杭の下を鼻で掘るから、土が外へ散る。
これは横から押されている。
人か、鹿か、それより軽いもの。
ミナは杭をまっすぐに戻し、根元に石を三つ詰めた。本当は新しい杭に替えたい。でも、今日はそこまで手が回らない。
「ミナ!」
村の方から声がした。
振り向くと、トマが小走りでやって来るところだった。肩に古い弓をかけ、片手に曲がった鎌を持っている。
「おはよう、トマ」
「おはようじゃない。朝から森の方へ行くって聞いたから来たんだよ。ひとりで奥まで行くなって、昨日も言っただろ」
「奥までは行かないよ。境を見るだけ」
「その『だけ』が信用ならないんだよな、お前」
トマは息を整えながら、ミナの横へ来た。
トマはミナより少し背が高い。
畑仕事も狩りの手伝いもするから、朝から走ってきても、目だけは森の方を見ている。
口は少しうるさい。
そのぶん、よく見ている。
「水路、何かありそう?」
「少し。草と泥がたまってるみたい」
「だよな。村長が昨日から、南の畑の水が弱いってぼやいてた」
「うん。あとで見る」
トマは柵の向こうを見た。
森の端の草が、変な形で倒れている。
「先に南の罠か」
「うん。昨日ずれてたから」
「水路も罠も柵もか。朝から問題だらけだな……」
「本当にそう」
「お前の親父さんも、こういう日は昼まで戻ってこなかったよな」
「うん。戻ってきても、だいたい杭か縄を探してた」
「それで母さんたちに、また道具置き場を散らかすなって怒られてた」
「それも森番の仕事?」
「うん。杭が一本足りないだけで、柵が倒れることもあるから」
「……地味だけど、放っとくと村中が困るやつだな」
ミナは柵を越えず、横の細い通り道へ回った。村人が森へ入る時に使う道だ。入り口には古い木札が吊るしてある。
黒い線が三本。
ここから先は、森番に声をかけてから入れ、という印だった。
もう半分ほど色が落ちている。
「この札も塗り直さないと」
「また仕事が増えた」
「見つけたら増えるんだよ」
「見なかったことには?」
「あとで困る」
ミナは木札の紐を結び直し、森の縁へ入った。
黒枝の森は、朝でも薄暗い。
木の枝がねじれたように伸び、地面には湿った落ち葉が積もっている。森の奥へ行くほど暗くなるが、境目のあたりにはまだ村の匂いが混じっていた。煙、干し草、畑の土、人の足音。
その匂いが届かなくなる場所から先は、森のものの場所だ。
ミナは獣道の横にしゃがんだ。
泥の上に、浅い足跡がある。
四つ足。
鹿より小さい。兎より重い。爪が少し長い。
「何か通ったな」
トマが後ろから覗き込んだ。
「小さいね。子どもの魔猪……じゃないかな。足の開き方が違う」
「角兎か」
「たぶん」
「また根菜を狙ってるのかよ。去年も南端を掘られただろ」
「うん。普通の兎より力が強いし、びっくりするとまっすぐ突っ込んでくる」
「追うと畑に走るやつだな」
ミナは足跡の周りを見た。
折れた草。泥に擦れた跡。片方の足跡だけが少し深い。
「たぶん、後ろ足を痛めてる」
「怪我してるなら、なおさら危ないだろ」
「うん。だから追い回さない」
「逃げ道を塞ぐと暴れる、ってやつか」
「畑の方へ走られたら、根菜も柵もやられる。子どもがいたら危ないし」
トマは森の奥と畑の方を見比べた。
「水場へ逃がすんだな」
「うん。村の方へ行かないようにして、森へ戻す」
ミナは立ち上がり、獣道の先を見た。
足跡は、水場へ向かう道から外れて、村の畑へ寄っていた。たぶん、畑の根菜の匂いを覚えたのだ。お腹が空いているのかもしれない。怪我でいつもの餌場まで行けないのかもしれない。
どちらにしても、畑へ入られると困る。
「角兎だからすぐ追い払う、って決めると危ないんだよ」
ミナは落ちていた枝を拾いながら言った。
「畑も荒らすし、角もある。でも、今どこを通ろうとしてるか見ないと、ただ追い払っても別の場所から入るだけ」
「そういうとこ、親父さんに似てきたな」
「そう?」
「村のじいさんたちが言ってる。見てる場所が似てきたって」
ミナは枝を持ったまま、少しだけ黙った。
「……まだ、父さんほどじゃないよ」
「そりゃそうだろ。でも、南の柵を見る目はもう森番だよ」
ミナは倒れた枝を二本、獣道の村側へ斜めに置いた。完全には塞がない。塞ぎすぎると、獣は焦って別の道を探す。少し嫌がる程度にする。
それから、森側へ向かう細い道の落ち葉を足で払った。
逃げやすい方を作る。
「それで戻れば楽なんだけどな」
「戻る時もある。戻らない時もある」
「まあ、森のものはこっちの都合じゃ動かないか」
「うん。だから、こっちの都合を押しつけすぎない」
ミナは木札をもう一枚取り出し、低い枝に結んだ。
斜めの線が一本。
森番同士で使っていた印だ。ここは獣道が変わっている。気をつけろ、という意味。
父が使っていた頃からある印を、ミナはまだ使っている。
「トマ、そっちの枯れ枝、畑側に少し寄せて。踏むと音が出るくらいでいい」
「音鳴らしだな」
「うん。捕まえる罠じゃない。知らせるだけ」
「角兎は小さくても足が強いからな。引っかけると柵ごと暴れる」
「そう。村の人が近づかないようにするのと、来たら音で分かるようにするだけ」
トマは言われた通り、枯れ枝を畑側の草むらに寄せた。
その時、背後の木立がかすかに揺れた。
トマが肩を跳ねさせる。
ミナも振り返った。
木の間から、ルシェラが出てきた。
肩に上着を引っかけ、片手に洗い終わったらしい木椀を持っている。どうして椀を持ったまま森まで来たのかは分からない。
「……ルシェラ、鍋は?」
「洗った」
「薪は?」
「束ねた」
「本当に?」
「半分ほど」
「残りは?」
「後ほど」
ミナは無言でルシェラを見た。
ルシェラはそっと視線をそらした。
トマは、ルシェラと木椀を見比べた。
「なんで椀持って森に来てるんだよ」
「手から離すと忘れる」
「自覚あるんだな……」
ルシェラは鼻先を少し上げ、森の奥を見た。
朝の眠そうな顔ではない。
目だけが鋭い。
「小さな魔力の匂いがする。弱っているな」
「角兎だと思う。後ろ足を痛めてるみたい」
「潰すか?」
トマの顔が引きつった。
ミナはすぐに首を振った。
「潰さない」
「畑を荒らすのであろう」
「今潰そうとしたら、たぶん畑の方へ逃げる。怪我してるなら余計に暴れるし、他の獣も驚く」
「ならば、わたしが森ごと静めて――」
「ルシェラ、その枝踏まないで。罠の目印だから」
ルシェラの足が、枝の手前でぴたりと止まった。
「……む」
「あと、森ごととか言わない。畑の柵も薪置き場も近いんだから」
「小娘、森の気配を読み、境界を定めるか。やはり――」
「境界っていうか、こっちが畑。あっちが獣道。踏んでいいのはそっち」
ミナは足元を指した。
ルシェラは少し不満げにしながらも、指された場所へ足を置いた。
トマが小声で言う。
「ミナ、あの人、今なんかすごいこと言いかけてなかったか」
「いつもだよ」
「いつもなのか」
「うん。だいたい鍋か薪の話に戻る」
「お前の家、どうなってるんだ」
「ただの居候だよ」
「ただの、で片づけていいのか?」
ミナは答えず、獣道の続きを見た。
足跡はまだ新しい。
泥の乾き方から見て、朝方に通ったばかりだ。水場へ向かおうとして、途中で畑の匂いに引かれたのだろう。
ミナはトマに合図して、森の水場へ向かう脇道を進んだ。
水場といっても、小さな湧き水が落ち葉の下から出ているだけの場所だ。獣や鳥が使う。村人はほとんど来ない。来ないようにしている。
ミナは水場の縁を踏まないよう、少し遠回りした。
ここを荒らすと、獣は別の水を探す。村の井戸や畑の溝に来られると、あとが面倒だ。
「ここ、まだ水はあるね」
ミナは湧き水のそばでしゃがんだ。
水量は少ないが、枯れてはいない。周囲の泥に、小さな足跡がいくつもある。鳥。野兎。狐。小さな魔獣らしい、爪の深い跡。
ルシェラが水面を見下ろした。
「水の底が少し重い。村の水路と同じ匂いが混じる」
「泥が動いてるのかな」
「もっと奥だ」
「奥?」
「土の下で、水が嫌がっている」
トマが眉を寄せた。
「水が嫌がるって何だよ」
「水は嫌がる」
「水は嫌がらないだろ」
「鈍い人間だな」
「おい」
ミナは二人の間に軽く手を上げた。
「水場は、あとでまた見る。村の水路も気になるし」
「また増えたな」
トマが言った。
責める声ではなかった。
ミナも同じ気持ちだった。
でも今は、目の前の足跡だ。
「角兎は、たぶんこの辺りに戻ってくる」
ミナは水場から畑側へ戻る細い道を見た。
「畑へ向かう道は嫌がるようにして、水場への道は残す。トマ、村の子たちに、今日は南の柵の近くで遊ばないよう言ってくれる?」
「わかった」
「あと、村長にも。畑の南端は、昼まで一人で行かないように言っておいて」
「言っておく。けど村長、また渋い顔するぞ」
「いつもしてるから大丈夫」
「それは大丈夫なのか?」
「しわが増える前に水路も見る」
トマは少し笑った。
「村長のしわ基準かよ」
「畑が弱ると深くなる」
「それは分かる」
ミナは水場の近くに、もうひとつ目印をつけた。
今度は枝を三本、三角に組む。
ここは森のものが使う水場。村人はむやみに入るな。
森番の家に伝わる印だが、村の年寄りならまだ分かる。
若い人には、たぶんもう分からない。
だから、あとでトマに言ってもらう。
森を見ただけでは足りない。
村の人がそこへ入ってしまったら、結局同じことになる。
その時、草むらの奥で、ぱき、と細い枝が鳴った。
トマが弓に手をかける。
ルシェラは片目を細めた。
ミナは手を上げて、二人を止めた。
「動かないで」
草が揺れた。
小さな影が見えた。
兎に似ているが、額から短い角が一本出ている。後ろ足の片方を少し浮かせ、泥の上で身を低くしていた。
角兎だ。
目は黒く、体は濡れている。痩せてはいないが、怯えていた。鼻をひくひく動かし、村の方と水場の方を何度も見比べている。
「やっぱり怪我してる」
ミナは小さく言った。
「弓、構えとくか?」
トマが聞く。
声は低い。
撃ちたいのではなく、必要なら撃つという声だった。
ミナは首を振った。
「まだ。構えると怖がる」
ルシェラが退屈そうに言う。
「わたしなら一息で済む」
「済ませない」
「畑を荒らすぞ」
「畑に入れないようにする」
「なぜそこまで面倒を見る」
ミナは角兎から目を離さずに答えた。
「面倒を見るんじゃないよ。村へ来たら困るから、森に帰ってもらうだけ」
角兎が一歩、村側へ動いた。
その足元で、トマが置いた枯れ枝が乾いた音を立てる。
角兎の耳が跳ねた。
ミナはすぐに、反対側の落ち葉を足で払った。水場へ続く道が、少しだけ明るく見える。
「こっち」
声はかけない。
言葉は通じない。
でも、こちらが動く向きや立つ場所は伝わる。
逃げ道だけは塞がない。
怖がらせすぎると、足を痛めたままでも走る。
畑側には音を残して、水場側だけ少し空ける。
角兎はしばらく固まっていたが、やがて体を低くしたまま、水場の方へ跳ねた。
一度だけ振り返る。
ルシェラを見て、びくりと身を縮めた。
それから、森の奥へ消えた。
トマが長く息を吐いた。
「……行った」
「うん」
「でも、今夜また畑側へ来るかもしれないな」
「たぶん。だから、南の柵は少し強くしないと」
「結局、仕事が増えたな」
「増えたね」
ミナは草むらに残った足跡を見た。
後ろ足の片方が弱い。
でも動けないほどではない。
水場へ戻れるなら、しばらくは大丈夫だろう。
「トマ、村に戻ったら、曲がった古釘まだ残ってるか聞いてくれる?」
「柵に使うのか?」
「うん。でも新しいのは使わないで。第三区画の柵は、まだ縄でいけると思う」
「第三区画って、エル婆の薬草畑の近くか」
「そこ。角兎が入ったら、薬草を食べるかもしれない」
「それはまずいな。エル婆が怒る」
「エル婆が怒ると、村長のしわも増える」
「またしわか」
ルシェラが、なぜか満足げにうなずいた。
「恐怖ではなく道を示し、争いではなく境を整える。小娘、やはりおぬしは――」
「ルシェラ」
「なんだ」
「その椀、持って帰ってね。森に置いたら鼠が舐める」
ルシェラは手の中の木椀を見下ろした。
「……むう」
トマが小さく吹き出した。
「本当に戻すんだな、鍋とか椀に」
「大事だからね」
「まあ、椀は大事だけどさ」
ミナは森の縁へ戻りながら、木札の位置をもう一度見た。
畑側に枯れ枝。水場側に空いた道。柵のゆるんだ杭。水路に刺した目印。
今日中に全部は無理かもしれない。
でも、見たものを放っておくと、あとでもっと困る。
村と森は近い。
近すぎるくらいだ。
だから、少しずつ直すしかない。
泥を見る。枝をどける。札を結び直す。柵が弱ければ、あとで縄を持ってくる。
そういうことを放っておくと、魔物より先に畑が困る。
森を出る頃には、朝の靄は薄くなっていた。
村の方から、薪を割る音が聞こえる。斧が乾いた木に当たり、少し遅れて犬が吠えた。
トマが思い出したように言った。
「そうだ。村長が、今年は薪が足りないかもしれないって言ってた」
「やっぱり?」
「若いのが少ないし、北の斜面の倒木もまだ運べてない。エル婆も、薬草を早めに乾かしたいってさ。雨が増える前に」
ミナは水路に刺した木札を見た。
その先に、畑がある。
畑の向こうに、村の家々がある。
屋根。煙。薪置き場。小さな干し場。冬になると足りなくなるものばかりだ。
「冬は、来てからじゃ遅いからね」
「冬支度か?」
「うん。薪も、薬草も、干し豆も。塩も」
「塩は商人待ちだな」
「トレオの商人さん、早く来ないかな」
「来ても、買う金がな」
「そこも困る」
トマは肩を落とした。
ルシェラは横で堂々と言った。
「肉なら獲ってきてやる」
「ありがたいけど、干す塩がないの」
「また塩か」
「また塩だよ」
ミナは軽く笑って、村の方へ歩き出した。
森の湿り気は、まだ背中に残っている。
水路の流れも、角兎の足跡も、南の柵も、全部気になる。
でもまずは、村長に南の畑へ一人で行かないよう伝える。
それから、古釘を探す。
そのあと、水路を見る。
できれば、薪置き場も。
森番の娘の一日は、魔物を退治するより、やることの順番を間違えない方が大事だった。
作品情報(この話数の現在地)
第1部:辺境領と教会編
第1章:森番の娘と居候
第2話:森番の娘




