第3話 深夜の食堂と、黒狼騎士団長
王宮の厨房が静寂を取り戻すのは、日付が変わる頃だ。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石造りの部屋。
ヴォルグ料理長たちを帰した後、私は一人、調理台に向かっていた。
「ふぅ……。ようやく私の時間ね」
下働きとしての業務――主に掃除と下処理、そしてヴォルグたちへの「技術指導」という名の料理教室――を終えた私は、猛烈な空腹に襲われていた。
昼間は味見程度しかしていない。
「さて、今夜の夜食は……これしかないわね」
私は保冷庫から、肉の塊を取り出した。
『グレート・ボア』のバラ肉だ。
昼間、冒険者ギルドから納品されたばかりの新鮮な猪肉。脂身が甘く、赤身には野性味溢れるコクがある。
「疲れた体には、ビタミンB1と……ガツンとくるニンニク醤油味よね」
私はナイフを滑らせ、バラ肉を薄切りにしていく。
この世界にはスライサーがないので手作業だが、生活魔法で切れ味を強化したナイフなら、透き通るような薄切りも思いのままだ。
次に用意するのは、土がついたままの根菜『黄金生姜』。
普通の生姜より辛味が強く、加熱すると爽やかな香りが倍増する。これを皮ごとすりおろす。
合わせ調味料を作る。
東方の国から輸入された黒い調味料『黒しずく』(醤油に近い発酵調味料)に、地酒、そして隠し味にハチミツを少々。そこにたっぷりのすりおろし生姜を投入する。
「よし」
準備は整った。
私はフライパンを熱し、薄く小麦粉をまぶしたボア肉を並べる。
ジューッ……!!
深夜の厨房に、脂が弾ける小気味よい音が響く。
肉の色が変わったところで、合わせダレを一気に回し入れる。
ジュワァアアアッ!!
蒸気と共に、醤油の焦げる香ばしい匂いと、生姜の刺激的な香りが爆発的に広がる。
タレが煮詰まり、とろみがついて肉に絡みつく。照り輝く飴色の豚肉。
その横には、あらかじめ刻んでおいた山盛りの千切りキャベツと、炊きたての白米『パールライス』。
「完成。特製ボア肉の生姜焼き定食」
皿に盛り付けようとした、その時だった。
「……誰だ」
背後から、地底の底から響くような低い声が聞こえた。
私はビクリと肩を震わせ、フライパンを持ったまま振り返る。
そこに立っていたのは、闇そのものだった。
黒一色の重厚な鎧。背中には身の丈ほどの巨大な剣。
乱れた黒髪の間から覗くのは、獲物を射抜くような鋭い金色の瞳。
近衛騎士団長、レオンハルト・ヴァン・アークライト。
戦場では「黒狼」と呼ばれ、泣く子も黙るこの国の英雄。
そして、王宮内で最も恐れられている人物だ。
(ひっ……! 不審者だと思われた!?)
私は息を呑んだ。
下働きが深夜に勝手に厨房を使っているとなれば、問答無用で斬り捨てられるかもしれない。
レオンハルトは眉間に深い皺を寄せ、ゆっくりと私に近づいてくる。
その手は腰の剣に伸びていて――。
グゥゥゥゥゥ~~~~~~。
「……あ」
殺気立った空気を、間の抜けた音が切り裂いた。
音の出処は、騎士団長の腹のあたりだ。
レオンハルトの動きがピタリと止まる。
恐ろしい形相はそのままに、彼の耳だけが赤く染まっていくのが見えた。
「……す、すまない。忘れてくれ」
彼は気まずそうに視線を逸らした。
その顔色をよく見れば、目の下には濃いクマがあり、頬もこけている。
噂によれば、彼は真面目すぎて激務をこなし、食事をとる時間すらないという。
私はフライパンを置いた。
恐怖心は、一瞬で「料理人としての使命感」に変わっていた。
「お腹、空いているのですか?」
「……いや、公務中だ。そのような個人的な欲求は――」
グゥゥゥゥゥッ!!
二度目の腹の虫は、一度目よりも自己主張が激しかった。
彼は口を結び、うなだれた。
「……三日ほど、まともな食事をしていない」
「三日!?」
自殺行為だ。
私は手早く皿をもう一枚用意した。
「座ってください。ちょうど作りすぎたところなんです」
「だが、私は部外者で……それに、毒見もしていないものを口にするわけには」
「ここにあるのは、ただのボア肉と野菜です。毒なんて入っていませんよ。……それとも、私の料理がお気に召しませんか?」
私は出来立ての皿を、カウンター越しに差し出した。
湯気と共に漂う、醤油と生姜の暴力的な香り。
空腹の人間にとって、この匂いは拷問に近い。
レオンハルトの喉がゴクリと鳴った。
本能が理性を凌駕した瞬間だった。
「……では、一口だけ」
彼は吸い込まれるように椅子に座った。
兜を外し、ナイフとフォークを手に取る。
だが、私は首を横に振った。
「その料理は、フォークよりもこちらの方が食べやすいですよ」
私は箸(のような木製の棒)を渡した。彼は不器用そうにそれを持つと、タレが絡んだ肉と千切りキャベツをまとめて掴んだ。
そして、口へ運ぶ。
「ん……ッ!?」
カッ、と彼の金色の瞳が見開かれた。
最初に舌を直撃するのは、黒しずくの濃厚な塩気とハチミツの甘み。
それを追いかけるように、黄金生姜のピリッとした辛味が鼻を抜けていく。
噛み締めれば、グレート・ボアの脂の甘みがジュワリと溢れ出し、タレと混ざり合って至福のハーモニーを奏でる。
濃い。
とにかく味が濃くて、強い。
疲労困憊の体に、エネルギーが直接注入されるような感覚。
「なんだ、これは……」
レオンハルトの手が止まらない。
肉を飲み込む前に、体が勝手に白米を求めた。
ふっくらと炊かれたパールライスを口いっぱいに掻き込む。
肉の濃い味を白米が受け止め、口の中で完璧な調和が生まれる。
「米が……こんなに甘いものだったとは」
肉、キャベツ、米。肉、米、米。
無限のループ。
タレが染み込んだキャベツだけでも、丼一杯食べられそうだ。
彼は無言だった。
眉間の皺はいつの間にか消え去り、ただひたすらに料理と向き合っていた。
その勢いは、まるで餓えた狼だ。
カチャン。
最後に箸を置いた時、皿の上には米粒一つ残っていなかった。
「……ふぅ」
レオンハルトは深く、満足げな息を吐いた。
その表情は、私が今まで見たことがないほど穏やかで、憑き物が落ちたようだった。
強面の騎士団長が、まるで満腹になった大型犬のように見える。
「いかがでしたか?」
私が尋ねると、彼はハッとして居住まいを正した。
「……失礼した。あまりの美味さに、我を忘れていた」
彼は真っ直ぐに私を見た。
「王宮の晩餐会でも、これほど美味いものを食ったことはない。……これは、魔法か何かか?」
「ただの生姜焼きですよ。魔法なんて、美味しくなるようにかけた『おまじない』くらいです」
私が笑うと、彼は眩しいものを見るように目を細めた。
「名前を、聞いてもいいか」
「エリスです。ここの下働きです」
「エリス……。私はレオンハルトだ」
彼は立ち上がると、騎士の礼をとった。
下働きの私に対して、敬意を払う姿勢。
噂とは違い、実直で誠実な人なのだと思った。
「エリス。……その、また」
彼は言い淀み、視線を泳がせた後、意を決したように言った。
「明日も、ここに来ていいだろうか」
その言葉は、まるで初恋の少年の告白のようだった。
私は思わず吹き出しそうになりながら、頷いた。
「ええ、歓迎しますよ。ただし、他の方には内緒です。ここは『秘密の食堂』ですから」
「ああ、誓おう。騎士の名にかけて」
レオンハルトは口元を緩め、満足げに厨房を去っていった。
その足取りは、来た時よりも随分と軽そうだった。
私は空になった皿を洗いながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ヴォルグたち料理人の反応も嬉しかったけれど、あんな風に、心から救われたような顔で「美味い」と言われるのは、格別だ。
(さて、明日は何を作ろうかしら)
お客様第一号は、国最強の騎士団長。
この『深夜の食堂』が、やがて騎士団全体を巻き込む大行列店になることを、私はまだ知らなかった。
◇
翌日。
王宮の練兵場にて。
部下たちは、信じられない光景を目撃してざわついていた。
「おい……見ろよ、団長を」
「朝から一度も怒鳴っていないぞ」
「それに、あの顔を見ろ。肌ツヤが良すぎて光って見える」
「一体何があったんだ……?」
レオンハルトは、いつものように厳しい顔で剣を振るっていたが、その内側には昨晩の余韻――生姜焼きの記憶――が温かく残っていた。
そして、昼時。
食堂で出されたパサパサのパンとスープを見た瞬間、彼は無意識に呟いてしまったのだ。
「……エリスの飯が食いたい」
その呟きを、鋭い耳を持つ副団長が聞き逃すはずはなかった。
「エリス? 誰です、その女性は。詳しく聞かせてもらいますよ、団長」
美食の噂は、風よりも早く駆け抜ける。
私の平穏な下働き生活が終わりを告げるカウントダウンは、もう始まっていた。




