第2話 厨房改革開始! スープの香りは壁を越えて
翌朝、厨房に足を踏み入れたヴォルグ料理長は、入り口で凍りついた。
「……夢でも見てんのか、俺は」
昨日まで油と泥にまみれていた床は、顔が映るほどに磨き上げられていた。
黒ずんでいた調理台は白木の色を取り戻し、乱雑に積まれていた鍋やフライパンはサイズ順に整然と棚に収まっている。
淀んでいた空気は消え、換気窓から差し込む朝日が清々しい。
その中心で、私は腕まくりをして仁王立ちしていた。
「おはようございます、料理長。約束通り、ピカピカにしておきましたよ」
私の背後では、徹夜で掃除をさせられた料理人たちが屍のように床に転がっていた。だが、その顔はどこか晴れやかだ。昨晩のサンドイッチの味が、彼らに活力を与えているらしい。
「お、おう……。お前、魔法使いか?」
「ただの生活魔法です。さて、環境は整いました。次は『味』の改革です」
私は調理台の一角を指差した。
そこには、今朝届いたばかりの大量の野菜くず――ニンジンの皮、タマネギの芯、セロリの葉などが山盛りにされている。
「今日の王宮ランチのメニューは『牛ステーキ』と『野菜スープ』だと伺いました。ですが、このままでは不味いものしかできません」
「なんでだ? 肉は高級な『ロックカウ』だぞ」
「素材が良くても、土台がダメなんです。料理長、いつもスープの出汁はどうしていますか?」
ヴォルグは首を傾げた。
「出汁? 湯に塩と香草を入れて、肉を茹でるだけだが」
私は頭を抱えたくなった。
やはり、この世界の食文化は発展途上だ。旨味という概念が希薄すぎる。
「それがいけません。旨味の相乗効果がないと、ただの塩辛いお湯です。……見ていてください」
私はかまどに巨大な寸胴鍋をセットした。
そこに、捨てられるはずだった野菜くずを惜しみなく放り込む。
さらに、ステーキ肉を整形する際に出た『ロックカウ』の筋や骨、端切れ肉を、フライパンで焦げ目がつくまで焼いてから投入した。
「おいおい、ゴミを煮込むのかよ」
「ゴミではありません。『宝の山』です」
水をなみなみと注ぎ、火を入れる。
沸騰する直前で火を弱め、アクを丁寧に取り除く。
コトコト、コトコト。
鍋の中で、野菜と肉の端切れが踊る。
本来なら半日以上かかる工程だが、私は鍋に手をかざし、生活魔法『熟成』を発動した。時間を短縮し、素材の細胞壁を壊して旨味を急速に抽出する。
十分後。
厨房の空気の色が変わった。
「な……なんだ、この匂いは!?」
床で寝ていた料理人たちが、ゾンビのように起き上がった。
漂ってきたのは、甘く、香ばしく、どこか懐かしい香り。
野菜の甘みと肉の力強さが複雑に絡み合った、極上のブイヨンの香りだ。
私は鍋の中身を布で濾した。
現れたのは、黄金色に輝く透き通ったスープ――コンソメだ。
小皿に入れてヴォルグに渡す。
彼は震える手でそれを口に含んだ。
「!!」
言葉が出ないようだった。
喉を通った後も残る、濃厚な余韻。塩はまだ一粒も入れていないのに、素材の力だけでこれほど豊かな味がするなんて。
「これが『出汁』です。これをベースにすれば、どんなスープもソースも劇的に美味しくなります」
ヴォルグは空になった小皿を呆然と見つめ、そして私を見た。その目には、もはや疑いの色は微塵もない。あるのは崇拝だけだ。
「エリス……様」
「様は要りません。それより料理長、余ったミンチ肉がありますね? 今日はまかないで『ハンバーグ』を作りましょう」
◇
一方、王宮のダイニングルーム。
豪奢なテーブルにつきながら、ギルバート王太子は深いため息をついていた。
「……食欲がない」
目の前に置かれたのは、最高級の食器に盛られたランチだ。
だが、その中身はお粗末だった。
スープは見た目こそ金粉が浮いていて豪華だが、啜ってみるとただの塩っぱいお湯。具材の野菜は煮崩れてグズグズだ。
メインの『ロックカウ』のステーキに至っては、焼きすぎて靴底のように硬くなっている。
「どうなさいましたの、ギル様? もっと召し上がってくださいな」
向かいに座るミアが、無邪気に首をかしげる。
彼女の皿の上も手付かずだが、彼女は食事よりも自分のドレスのリボンを直すことに夢中だった。
「いや……最近、味が落ちた気がしてな。以前はもっと、こう……肉は柔らかく、スープは香り高かったはずだが」
「あら、気のせいですわ。料理人は変わっておりませんもの。きっとギル様がお疲れなのですわ」
ミアは悪びれもせずに言った。
実は、彼女が厨房の予算を三割もカットし、その分を自分の装飾品代に回していることを、ギルバートはまだ知らない。
質の良い炭が買えずに火加減が安定しないことも、新鮮なハーブが買えなくなったことも。
「そうか、気のせいか……」
ギルバートは無理やりスープを流し込んだ。
だが、脳裏にはなぜか、追放したはずのエリスの顔がちらついていた。
彼女がいた頃、執務室に差し入れられた夜食は、冷えていても不思議と美味しかった。
あれは、彼女が何か魔法を使っていたのだろうか?
「……いや、あんな地味な女にそんな芸当ができるはずがない」
彼はかぶりを振り、ナイフで硬い肉と格闘し始めた。
キーッ、と皿をこする不快な音が、広い部屋に虚しく響き渡った。
◇
同時刻、厨房の裏にある休憩所。
そこは、王宮で一番の「美食の場」と化していた。
「「「いただきます!!」」」
野太い声が重なる。
料理人たちの目の前には、湯気を立てる皿が並んでいた。
本日のまかない料理、『ロックカウの特製手ごねハンバーグ ~黄金コンソメスープ仕立て~』。
私が主導し、ヴォルグたちが焼いた自信作だ。
硬い筋肉は包丁で細かく叩いてミンチにし、昨日作ったパンの残りをパン粉にして混ぜ込んだ。
つなぎには炒めたタマネギと、例のマヨネーズを隠し味に入れている。
「うおおおお!」
一人の若手料理人が、ハンバーグにナイフを入れた。
その瞬間。
ジュワアアァァッ……!
断面から透明な肉汁が滝のように溢れ出した。
鉄板の熱で弾ける脂の音が、食欲を刺激する暴力的な音楽となって耳を打つ。
「なんだこの肉汁の量は!?」
「急げ、皿からこぼれるぞ! 口で受け止めろ!」
彼らは肉塊を口に運んだ。
表面はカリッと香ばしく焼き固められているが、中は信じられないほどふわふわだ。
噛む必要すらない。舌の上で肉が解け、旨味の爆弾が破裂する。
そこにかかっているのは、先ほどの黄金コンソメを煮詰めて作った特製オニオンソース。
玉ねぎの甘みと胡椒に似た『ブラックビーン』の塩気が、肉の脂っこさを中和し、白米を無限に欲する味に仕上がっている。
「うめぇ……! なんだこれ、うめぇよぉ!」
「俺たちが今まで作ってた肉料理はなんだったんだ……」
中には涙を流しながら食べている者もいる。
ヴォルグ料理長は、無言で三皿目を平らげた後、重々しく口を開いた。
「エリス師匠」
「また呼び名が変わっていますね」
「このハンバーグ、王子のランチに出さなくてよかったんですかい? あっちのステーキより、こっちの方が百倍美味いですが」
彼はソースをパンで拭い取りながら言った。
私は自分の分のハンバーグを優雅に切り分けながら、にっこりと微笑む。
「何を仰いますか。私は『下働き』ですよ? メニューを決める権限はありませんし、勝手なことをすればまた処罰されてしまいます」
それに。
「美味しい料理は、その価値が分かる人に食べてもらってこそ、でしょう?」
私の言葉に、ヴォルグたちは一斉に頷いた。
彼らはもう、私の信者だ。
「それにしても……この匂い、換気口から外に漏れてねぇか?」
誰かが言った。
確かに、ハンバーグを焼く強烈に香ばしい匂いは、厨房の壁を越え、風に乗って広がっていく。
まさかその匂いが、王宮の裏庭を巡回していた「あの男」の鼻を刺激することになるとは、この時の私はまだ気づいていなかった。
裏庭の木陰。
黒い鎧を纏い、鋭い眼光で周囲を警戒していた近衛騎士団長、レオンハルト・ヴァン・アークライトは、ふと足を止めた。
「……なんだ、この暴力的なまでに美味そうな匂いは」
彼は鼻をひくつかせた。
その視線は、王宮のメインダイニングではなく、薄暗いはずの厨房の方角へと釘付けになっていた。
彼の腹の虫が、敵襲を告げる警鐘のように、盛大に鳴り響いた。




