第1話 婚約破棄と、最高のたまごサンド
「エリス・フォン・メラルド! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
王宮の大広間に、ギルバート王太子のヒステリックな声が響き渡った。
シャンデリアの光が降り注ぐ華やかな夜会。着飾った貴族たちが、扇で口元を隠しながらざわめいている。
その視線の中心で、私は静かにカーテシーをした。
「……謹んで、承りますわ」
頭を下げながら、私は眼鏡の奥で密かに瞳を輝かせる。
こみ上げてくる笑みを噛み殺すのに必死だった。
やった。
ついに、やったわ!
これで、あの地獄のような王妃教育から解放される。
毎日毎日、覚えきれないほどの貴族名鑑を暗記し、愛想笑いを浮かべて茶会を主催し、王子の機嫌を取るだけの日々。
そんな生活とはおさらばだ。
ギルバート王太子の隣では、ピンク色の髪をふわふわと揺らした男爵令嬢、ミアが彼の腕にへばりついていた。
彼女は上目遣いで私を見つめ、怯えたふりをする。
「ギル様ぁ、エリス様が怖いですぅ……。私、睨まれただけで震えが止まらなくて」
「おお、よしよし。可哀想なミア。僕が守ってあげるからね」
睨んでなどいない。
私はただ、今日の夜食は何にしようかと考えていただけだ。
王太子は私に向き直ると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「エリス、貴様には『嫉妬に狂って未来の王妃候補を害そうとした』罪がある。本来なら国外追放だが、長年のよしみで慈悲を与えてやろう」
彼は芝居がかった仕草で指を突きつけた。
「貴様の実家である公爵家とは縁を切らせてもらう。そして、今日からは平民と同じ身分として、王宮の厨房で下働きを命ずる! 華やかな世界から離れ、油と煤にまみれて頭を冷やすがいい!」
会場から、クスクスという嘲笑が漏れた。
公爵令嬢が下働き。これ以上の屈辱はないと、誰もが思っているのだろう。
だが。
「……厨房、ですか?」
「そうだ! 嫌なら泣いて謝るがいい。まあ、謝ったところで許しはしないがな!」
私は顔を上げた。
眼鏡の位置を指先でくいっと直し、真顔で答える。
「承知いたしました。その処分、ありがたくお受けします」
私の声には、一片の曇りもなかった。
むしろ、弾んでいたかもしれない。
だって、厨房ということは。
料理ができるということじゃないか!
◇
翌朝。
私は王宮の北側に位置する、薄暗い使用人区画にいた。
昨日までの絹のドレスは剥ぎ取られ、支給されたのはごわごわとした麻の服と、白いエプロン、そして三角巾だけ。
個室ですらない、相部屋の狭いベッドが私の新しい寝床だ。
「……最高ね」
私は鏡の前で、長い亜麻色の髪を一つにまとめ上げた。
邪魔だった飾り気のない眼鏡も、ここなら曇る心配だけすればいい。
前世の私は、日本という国で洋食屋を営んでいた。
客の笑顔を見るのが好きだった。包丁がまな板を叩く音が好きだった。出汁の香りが染みついたエプロンが誇りだった。
過労で倒れてこの世界に転生してからは、公爵令嬢という立場に縛られ、一度たりとも厨房に立つことを許されなかったのだ。
「食材……食材はどこ……」
私は期待に胸を膨らませ、厨房の裏口を開けた。
瞬間。
鼻を突いたのは、むっとするような油の酸化した臭いと、生ゴミの腐敗臭だった。
「なっ……」
目の前に広がっていたのは、戦場のような惨状だった。
床はぬめり、野菜の切れ端が散乱している。
使い終わった鍋は洗われないまま山積みになり、その横で数人の料理人たちが気だるげに煙草をふかしていた。
「おい、誰だお前。見ねぇ顔だな」
紫煙の向こうから、一人の巨漢がのそりと立ち上がった。
丸太のような腕。顔には大きな刀傷。
まるで山賊の頭領のような男だ。彼がこの厨房の長、ヴォルグ料理長だろう。
「本日より配属されました、エリスと申します」
「ああ、例の元公爵令嬢サマか。殿下から聞いてるぜ。こき使っていいってな」
ヴォルグは鼻で笑うと、足元に転がっていた木箱を蹴った。
「ここは貴族のお嬢様がおままごとする場所じゃねぇんだ。邪魔だから、そこの隅っこで芋の皮でも剥いてろ。終わるまで飯は抜きだぞ」
他の料理人たちが下卑た笑い声を上げる。
私は無視して、厨房の中を見渡した。
衛生観念の欠如。食材への冒涜。
元料理人としての血が、ふつふつと沸騰するのを感じる。
「……料理長。質問してもよろしいですか」
「ああん?」
「あそこの棚に放置されているパンと、木箱に入っている卵。あれは捨ててしまうのですか?」
私が指差したのは、カビが生える寸前まで乾燥しきった『岩石小麦』のパンと、殻にヒビが入って売り物にならない『金鶏』の卵だった。
「ああ? そんなゴミ、どうでもいいだろ。豚の餌にするんだよ」
「では、私が頂いても?」
「はっ、物好きなこった。残飯漁りとはな。好きにしろ」
ヴォルグは興味なさげに手を振った。
私は口角を上げた。
交渉成立だ。
私は急いで手洗い場へ向かった。
水桶の水は濁っていたが、そんなことは想定内だ。
私は掌をかざし、生活魔法を発動する。
『浄化』
光の粒子が水をろ過し、一瞬で清らかな水へと変える。
手を洗い、調理台の一角をピカピカに磨き上げると、私は「ゴミ」と称された食材たちを並べた。
岩石小麦のパン。
この世界の平民が主食とするパンだが、焼いてから時間が経つと名前の通り石のように硬くなる。
そのまま食べれば歯が欠ける代物だ。
金鶏の卵。
殻が割れているが、中身はまだ生きている。
金鶏は魔力を帯びた鶏で、その黄身は濃厚なコクと甘みを持つ最高級品だ。
「さて……久しぶりの調理実習といきましょうか」
私は深呼吸をした。
厨房の淀んだ空気の中に、私だけの聖域を作るように。
まず取り出したのは、ボウルと泡立て器。
そして、戸棚の奥に眠っていた『アマルの実』という柑橘類と、植物油の壺だ。
アマルの実は酸味が強く、そのままでは酸っぱすぎて食べられないが、香り高い果汁を含んでいる。
卵を割り、黄身だけを取り出す。
そこにアマルの実を搾り、塩を少々。
泡立て器を構える。
『回転』
生活魔法で手首の回転を加速させる。
前世では腕がパンパンになった工程も、魔法があれば一瞬だ。
黄身と果汁が混ざり合い、そこへ少しずつ油を垂らしていく。
シャカシャカシャカシャカ……。
小気味よい音が響くにつれ、ボウルの中身は黄金色の液体から、もったりとしたクリーム色へと変化していく。
乳化だ。
ツヤツヤと輝く、特製マヨネーズの完成である。
指先で少し舐める。アマルの実の爽やかな酸味と、金鶏の濃厚なコクが口いっぱいに広がった。
「完璧」
次は、残りの卵を茹でる。
かまどの火加減を調整し、固茹で手前の絶妙なタイミングで引き上げる。
熱々の殻を剥くと、ぷるんとした白身が現れた。
それをボウルに入れ、フォークで粗く潰す。
ゴロッとした白身の食感を残すのがポイントだ。
そこに先ほどのマヨネーズをたっぷりと投入し、黒胡椒に似た『ブラックシード』を挽いて混ぜ合わせる。
とろりとした卵サラダ。
湯気と共に立ち上る甘く濃厚な香りが、周囲の腐敗臭を切り裂いて広がっていく。
「おい、なんだこの匂いは……」
遠くでジャガイモを剥いていた料理人の一人が顔を上げた。
ヴォルグも鼻をひくつかせている。
私は構わず、最後の工程に取り掛かる。
岩石のように硬いパンだ。
これを美味しく食べるには、水分と熱が必要だ。
私はパンに霧吹き状にした水をかけ、生活魔法で内部の水分量を調整しながら、かまどの直火で表面を炙った。
チリチリと音がして、香ばしい小麦の香りが弾ける。
水分を含んで生き返ったパンは、外はカリッ、中はふっくらとした食感を取り戻す。
その熱々のパンを分厚くスライスし、たっぷりの卵サラダを挟み込む。
溢れんばかりの黄金色のフィリング。
パンの余熱でマヨネーズの酸味がまろやかになり、卵の香りが一層引き立つ。
完成だ。
『金鶏の卵たっぷり厚焼きサンド』。
まな板の上でそれを二つに切り分けた瞬間、断面から湯気がふわりと立ち上った。
その瞬間だった。
「……おい」
背後から、低い唸り声が聞こえた。
振り返ると、ヴォルグ料理長が私の手元を凝視して立っていた。
その目は、猛獣が獲物を見つけた時のように鋭い。
「お前、何を作った」
「賄いです。豚の餌にするには惜しいかと思いまして」
私は出来立てのサンドイッチを一切れ持ち上げ、彼に差し出した。
「毒見、してくださいますか?」
ヴォルグは疑わしげに私を一瞥したが、漂ってくる香りの誘惑には勝てなかったらしい。
無骨な手でサンドイッチを掴むと、大きな口を開けてかぶりついた。
ガブリ。
サクッというパンの軽快な音。
続いて、とろりとした中身が溢れ出す音。
ヴォルグの動きが止まった。
彼は目を大きく見開き、口の中のものを噛みしめた。
硬くて不味いはずの岩石小麦が、信じられないほど柔らかい。
そして何より、この中身だ。
酸味と甘み、塩気のバランスが奇跡的な調和を保っている。濃厚なのに、後味は爽やか。金鶏の卵が持つポテンシャルを、極限まで引き出していた。
「……なんだ、これは」
ヴォルグの声が震えている。
「ただの茹で卵を挟んだだけじゃねぇ。この白いソース……いや、このつなぎは何だ? それに、このパンの焼き加減……」
彼は二口、三口と猛烈な勢いでサンドイッチを平らげた。
指についたソースまで舐め取り、信じられないものを見る目で私を見た。
「美味い……」
その言葉は、静まり返った厨房に重く響いた。
「今まで食ったどの宮廷料理よりも、味が濃くて、温かい」
ヴォルグの強面が、恍惚とした表情に崩れている。
周りの料理人たちも、ゴクリと喉を鳴らして集まってきた。
「りょ、料理長! 俺にも一口!」
「ずるいぞ、俺にも食わせろ!」
「うるせぇ! これは俺が毒見してるんだ!」
群がる男たちを見て、私は眼鏡の奥で目を細めた。
第一段階、クリアだ。
「あの、料理長」
「……なんだ」
「まだパンも卵も残っています。作り方は教えますから、皆さんで召し上がりませんか? その代わり……」
私は散らかった厨房を指差した。
「この厨房の掃除、手伝っていただけますよね?」
ヴォルグは一瞬きょとんとしたが、すぐにニヤリと笑った。
それは先ほどの嘲笑とは違う、職人としての敬意を含んだ笑みだった。
「……ふん。いい度胸だ、元お嬢様。いや、エリス」
彼はパン屑を払いながら、部下たちに怒号を飛ばした。
「野郎ども! 総員、掃除だ! 床を舐められるくらいピカピカにしやがれ! 終わった奴から、この『極上サンド』のレシピを教えてもらえるぞ!」
「「「イエッサー!!」」」
男たちの目の色が変わった。
食欲という名の欲求は、いつの世も人を動かす最大の原動力だ。
こうして、私の下働き生活初日は、厨房の大掃除とサンドイッチパーティーから始まった。
一方その頃。
王宮のダイニングルームでは、ギルバート王太子が不機嫌そうにフォークを皿に叩きつけていた。
「なんだ、今日のスープは! ぬるい上に味が薄いぞ!」
「も、申し訳ございません殿下……」
給仕が青ざめて頭を下げる。
隣のミアも、見た目は可愛いがパサパサの焼き菓子を口にし、微妙な顔をしている。
「エリスがいた頃は、もっとまともな食事が出ていたはずだ……。あいつ、厨房でサボっているんじゃないだろうな?」
王太子はまだ知らない。
彼が追放した「地味な女」こそが、王宮の食卓を影で支えていた司令塔だったことを。
そして、その司令塔を失った厨房が、どれほどの速度で崩壊していくかを。
私が振る舞う「本物の美食」が、彼の喉元まで迫っていることも知らずに。




