11-1:二重の罠
11-1:二重の罠
王允との間に、決定的な亀裂が生まれてからというもの、屋敷の空気は不気味なまでに静まり返っていた。
かつてはどこかしら温かみのあった廊下も、今では氷の刃のように冷たく感じられる。
私たちは、互いに笑みを交わし、表面上は穏やかな父娘を演じ続けていた。
だが、その裏では――視線の端々、言葉の綾、ちょっとした沈黙にさえ、相手の腹の内を探る殺気が潜んでいた。
その静けさの奥で、着々と張り巡らされていたのは、董卓という巨鯨を仕留めるための最後の網。
その網を操る漁師は、もはや王允ではなく、完全に私自身であった。
王允はただの「飾り」。実際の舞台監督は、私。
その自覚が私の胸を焼き、同時に背筋をぞくりと震わせる。
*
最初の罠は、董卓の猜疑心を突くことから始まった。
あの男の最大の武器であり、同時に最大の弱点――それが「疑う心」だ。
彼は敵ばかりか味方すら信じぬ。
いや、むしろ最も近しい者ほど疑うのだ。
だからこそ、その心に「毒の種」を植えることができれば、彼自身の手で自らを滅ぼしてくれる。
私は陳宮を自らの天幕に招いた。
薄暗い灯火が彼の横顔を照らし、静かな空気の中に、知恵者特有の鋭さが漂う。
「陳宮殿。貴方の張り巡らせた情報網の中に、董卓様に直接、情報を届けられる者はおりますか?」
私の問いに、陳宮は一瞬眉を寄せ、それからゆっくりと頷いた。
「……おります。先般、我らに寝返った李粛の配下であった者の中に、まだ董卓様と繋がりを持つ者がおります。彼を使って、情報を流しますか?」
その声音にはわずかな緊張と、それを凌駕する期待が混ざっていた。
私の意図を瞬時に理解した彼の瞳は、これから始まる知略戦に向けて、刃のように輝きを増していった。
「ええ。その者に、偽の情報を流させるのです。ただし、あまりに直接的すぎてはなりません。噂話のように、それとなく、彼の耳に入るように」
私は木簡を取り出し、筆を滑らせる。
そこに書き記されたのは――董卓が最も信じやすく、最も恐れるだろう情報の骨子。
『呂布将軍は近頃、貂蝉様に入れ込み、相国様への忠誠が揺らいでおります。軍営では衛生改革や慈愛院の設立など、民に媚びるようなことばかり。并州武人の誇りを忘れ、女の言いなりになる姿に、古参兵たちの不満は頂点に達しております。一部の兵からは、貂蝉様を皇后とし、自らが天下に立とうとしている――などという謀反の噂さえ……』
筆を置いたとき、私は自らの胸にぞくりと寒気を覚えた。
毒薬の調合が、あまりに見事すぎたからだ。
董卓の心に巣食う呂布への不満。
それを煽り、膨らませ、爆ぜさせるための「言葉の刃」。
彼にとってこれは「最も聞きたい真実」であり、同時に「最も信じやすい嘘」だった。
陳宮は木簡を覗き込み、目を見開き、やがて低く唸った。
「……なるほど。相国様の呂布将軍への不信感を決定的にするのですね。そして、呂布将軍が孤立しているかのように見せかける」
「ええ。ですが、それだけではございません」
私は静かに笑んだ。
「この情報は、回り回って、必ず呂布将軍の耳にも届きましょう。そうなれば、将軍は董卓様が自分を疑っていることを知り、その身に危険を感じるはず。やがて――董卓様が自分を粛清しようとしているのではないかと、疑心暗鬼になる」
私はそこで一拍置き、声を潜めた。
「二人の間に、もはや修復不可能な亀裂を生じさせるのです」
静寂の中、陳宮は息を呑み、それから恍惚としたように頷いた。
「お見事です……敵味方、双方の心を同時に操るとは……。すぐに、手配いたします」
*
数日の後。
狙い通り、偽情報は董卓の心を深く、確実に蝕んでいった。
彼は呂布の武勇を恐れていた。
だが、その恐れが「味方への疑念」と結びついたとき、彼の中でそれは狂気へと変わる。
最強の駒が牙を剥くかもしれない――その想像だけで、彼の心臓は休まることを知らなかった。
董卓は呂布を遠ざけ、重要な軍議にも呼ばなくなったという。
かつては常に側近くに置き、己の力を誇示する象徴とした呂布を――。
その変化は、疑心暗鬼の炎が董卓をどれほど焼いていたかを、如実に物語っていた。
そして私は、次なる罠を仕掛ける。
今度の標的は――王允。
*
その瞬間、私の胸の奥で、不思議な感覚が揺らめいた。
父と娘という仮面を被り続ける茶番の裏で、いよいよ彼をも利用し尽くし、切り捨てる時が来るのだと。
董卓を外から揺さぶる罠。
呂布の心を突き崩す罠。
そして――王允を舞台の中央に立たせ、最後の犠牲へと仕立て上げる罠。
重ねられた三つの仕掛けは、もはや私一人にしか見えていない。
この舞台の脚本は、完全に私の手の中にある。
さあ――幕を上げよう。
董卓と呂布と王允。
その三者が織りなす二重、三重の罠こそ、最後の宴の前奏曲なのだから。




