10-9:最後の舞台へ
10-9:最後の舞台へ
私の言葉に、王允の目が大きく見開かれた。
その瞳は、長年の渇望と疑念とが入り混じった、複雑な色を宿していた。
「……本当か、貂蝉」
声は掠れ、震えていた。疑いながらも、望まずにはいられない――そんな老人の脆さが、言葉の端々から滲み出る。
「はい。呂布将軍も、ついに覚悟を決められました。彼もまた、董卓様の非道に、心を痛めておられたのです。あとは、お父様が、その舞台を整えてくださるだけでございます」
私は、彼が最も欲している答えを、迷いなく差し出した。
まるで飢えた獣に餌を与えるかのように。
王允の顔に、一瞬にして変化が訪れる。
半信半疑の影はなお残っていた。だが、董卓を討てる――その甘美な可能性は、彼の理性を呑み込み、慎重さを奪っていく。長年の悲願が目前に迫ったと錯覚したその瞬間、彼の胸の奥では歓喜が弾け、思考を曇らせていた。
「……分かった。すぐに、手筈を整えよう」
その声は先ほどまでの疲れを払拭し、再び覇気を帯びていた。
彼はまるで憑き物が落ちたかのように、活力を取り戻し、目に光を宿す。
――自分が、この計略の主導者なのだ、と。
その思い込みは、哀れであり、そして滑稽だった。
老人の胸に蘇った自尊心は、ただ、彼を道化へと仕立てるための最後の舞台装置にすぎない。
私は深く一礼し、ゆるやかに背を向ける。
重々しい扉を閉める、その瞬間――私は、ほとんど吐息のような小さな声で呟いた。
「―――せいぜい、お楽しみくださいませ、お父様。貴方が、主役でいられる、最後の舞台を」
その言葉が彼に届いたかどうかは分からない。だが、届かずともよかった。
これは、私自身に刻む誓いでもあったのだから。
*
自分の天幕へ戻ると、そこでは陳宮と張遼が、沈痛な表情で待っていた。
火に照らされた二人の顔は、どこか険しく、緊張に固く結ばれている。
「……よろしいのですか、貂蝉様」
先に口を開いたのは陳宮だった。
彼の声にはわずかな逡巡があり、それが彼の誠実さを物語っていた。
「王允殿を、このままにしておけば、いずれ我らの背後を突く牙となりましょう」
その言葉は正しい。陳宮は決して情で語る男ではない。
理を尽くした上で、危険を指摘しているのだ。
「ええ。分かっています」
私は静かに頷いた。
「ですが、今はまだ、彼が必要です。董卓を完全に油断させ、宮殿の奥深くまでおびき出すためには、漢の司徒である彼の権威が、どうしても必要なのです」
言葉を吐き出すごとに、胸の奥がわずかに痛んだ。
だが、その痛みを私は表に出さない。
私は、壁に掛けられた洛陽の地図に視線を向けた。灯火の揺らぎが都市の輪郭を照らし出し、まるで運命の舞台がそこに描かれているかのようだった。
「彼は、虎を狩るための、最も優れた囮。そして、その役目が終われば……」
そこで、あえて言葉を切った。
冷徹な結末は、口にするまでもなく伝わる。
沈黙が場を支配した。
陳宮も張遼も、何も言わなかった。ただ深く頭を下げ、私の決意を受け入れるように視線を伏せた。
彼らはすでに理解している。
私がただの聖女でも、憂いを歌う儚い女でもないことを。
目的のためなら、かつての恩人すら切り捨てる覚悟を持つことを。
夜の空気が、張り詰めた弦のように震えている。
やがて訪れる嵐を前に、私は心の奥で静かに囁いた。
―――さあ、始めましょう。
貴方が始めた、この茶番の、最後の幕を。
そして、その先に続く、私の本当の物語を。




