10-7:忠臣の仮面の下で
10-7:忠臣の仮面の下で
王允の密かな呼び出しに応じて現れたのは、彼が若かりし日より傍らに置き続けてきた、影のような男であった。
月明かりが細く射す廊下の奥、静かに開かれた書斎の扉。その敷居をまたぐとき、男の衣の袖が闇を切り裂くように揺れた。光を帯びない眼差しが、じっと主を射抜く。それは氷より冷たく、そして揺るぎない。長年仕えてきた者だけが持つ、絶対的忠誠の証のようでもあった。
しかし、その視線の先に映る王允の姿は――かつて威厳をもって朝廷を牛耳った名司徒の姿ではなかった。
机の上は文書で埋もれ、幾つもの封書は開かれることもなく散乱している。硯は割れ、筆は乾ききって無用の骨のように転がる。政務の要は瓦解し、主の心の荒廃がそのまま形になっていた。窓辺で燻る香炉からは香煙が細く漂い、焦げの匂いが室内に重苦しく沈殿している。
腹心の男は、その荒れ果てた光景を目にしても眉一つ動かさなかった。ただ静かに膝を折り、沈黙で主の命を待つ。その沈黙こそが、王允にとって何より心地よい「器の音」であることを知り抜いていたからだ。
「……聞け」
かすれた声が、やがて重く空気を震わせた。
かつて民を導き、百官を黙らせた切っ先のような声音はそこにはない。あるのは、何かに取り憑かれ、淀んだ澱の底から湧き上がるような声だった。
「計画は、変更だ」
たったその一言に、腹心は微かに息を呑む。長年仕えた己でさえ、主の声音に宿る異様さを測りかねたからだ。
「董卓は、討つ。それは変わらん」
淡々と置かれた前置きのあと、王允の口元がゆるりと歪む。
囁きのような声で、しかし冷酷な刃を隠しもせず、次の言葉が投げられた。
「だが、その後だ。董卓を討ったその罪を――すべて、呂布と貂蝉に、なすりつけるのだ」
その瞬間、書斎の温度が一気に下がったかのようだった。
蝋燭の炎が小さく揺らぎ、窓を打つ夜風の音さえ鋭く耳に突き刺さる。まるで世界がその言葉を聞きとがめたかのように。
「……と、申されますと?」
腹心は、慎重に問い返した。言葉の意味は理解できても、その真意が信じられなかった。
呂布と貂蝉――王允が自ら育て、董卓討伐の切り札として掲げてきた存在。その功を逆に罪へと塗り替えるなど、忠臣の計画とは思えぬものだった。
「分からんか」
ぎらりと光った王允の眼差しは、もはや漢室の未来を憂う忠義の目ではなかった。
恐怖、嫉妬、権力を手放すことへの狂おしい執着――それらが渦を巻き、濁りに濁った闇が底なしの淵を覗かせていた。
「呂布は義父を殺した大逆非道の悪人。貂蝉はその呂布を美貌で誑かし、国を乱した傾国の妖婦。そして――儂は漢室の忠臣として、帝の命を受け、この二人の『国賊』を誅伐するのだ」
声に込められた熱は、義憤ではなかった。冷徹な計算と燃え盛る憎悪に裏打ちされた熱である。
その声音は、信念ではなく妄執。理想ではなく自己正当化。
腹心の背筋に冷たいものが走る。己が仕えてきた主は、もはや「救国の英雄」ではない――「権謀に狂う怪物」へと変わりつつある。
「……しかし、呂布軍が黙っておりますまい。今の彼らは、貂蝉様に心酔しております」
それはわずかな望みとして投げられた言葉だった。だが、王允は即座に嘲笑で切り捨てた。
「案ずるな」
その声音は不気味なほど落ち着いていた。むしろ、揺るぎない自信を湛えてすらいる。
「董卓の専横を憂い、儂が密かに育んできた『漢室のための力』が、この屋敷の地下に眠っておる。呂布の并州兵だけが兵ではない、ということを……あの小娘に思い知らせてやるわ」
机の下を撫でる手の仕草が、まるで地下の兵を掌中に収めていることを確信するかのようだった。
その姿はまさしく、董卓が権力を恃んで笑みを浮かべたときのそれと酷似していた。
「都の将軍どもも、呂布の暴威を恐れておる。儂が帝の名で号令をかければ、必ずや我らに従う。奴らは英雄ではなく、天下の公敵として討たれるのだ」
吐き出す言葉は、正義の仮面をかぶりながらも、すでに毒を帯びていた。
それは国を救うためではない。己の地位を守るため、己を脅かす存在を葬り去るための謀略。
「これもまた、漢室のためよ。あの怪物どもを放置すれば、それこそ国が滅びる。儂は……国のために鬼になるのだ」
王允は自らに言い聞かせるように呟いた。
だがその声は震えていた。その言葉が鎧であることを、王允自身が誰よりも知っていたからだ。
「……承知いたしました」
腹心は深く頭を垂れた。反論はできない。いや、すでに反論を許さぬ空気が、書斎を覆っていた。
長年仕えてきた忠義の誓いが、今や「忠臣の仮面」としてしか存在しないことを、彼は薄々悟っていた。
しかし――その不穏な動きは、私の網から逃れられるものではなかった。
小蘭をはじめとする侍女たち、恩を与えた者たち、屋敷の隅々に張り巡らせた情報網。王允の視線の揺らぎ、呟きの一言に至るまで、すべてが私の耳に届いていた。
嵐は確かに近づいている。
静かな水面下で、音もなく、しかし確実に。
私はただ、その時を待っていた。




