10-6:砕かれたプライド
10-6:砕かれたプライド
あの書斎での一件以来、王允は、抜け殻のようになってしまった。
高官としての矜持も、司徒としての威儀も、見る影もない。彼は日がな一日、自室に閉じこもり、昼間から酒をあおるばかりだった。
「董卓を討たねばならぬ」という執念の火でさえ、いまや灰となり、風に散ったかのように思えた。
だが、それは外から見ればの話である。
実際の彼の胸中には、諦観など存在しなかった。
沈黙の奥で、砕け散った誇りの破片が鋭く胸を突き刺し、そこからどす黒い感情が滲み出していた。
――それは、嵐の前の不気味な凪にすぎなかった。
その夜。
王允は一人、書斎に籠もり、酒をあおっていた。
卓上には、高価な酒瓶が幾つも転がり、香の煙と混じってむせ返るような匂いを漂わせている。
床には砕けた杯の破片が散乱し、踏めば鋭く足を裂きそうだった。
酔いに濁った瞳は、焦点を結ばぬまま、虚空を睨んでいる。
彼の脳裏に、昼間の出来事が幾度も幾度も蘇った。
――あの会議、あの言葉、あの視線。
自分の計略の駒であるはずの貂蝉に、逆に主導権を奪われた。
その屈辱、その恐怖は、何度追い払おうとしても、焼き付いた映像のように頭から離れなかった。
「……あの小娘めが……」
彼は呪詛のように唸り、酒を喉へと流し込む。
思えば、最初はただの飾り物に過ぎぬと思っていた。
歌と舞にしか能のない、世間知らずの娘。
自分の言葉どおりに動き、役目が終われば、呂布と共に使い潰せばよい。そう、高を括っていたのだ。
だが――いつから歯車が狂い始めたのか。
衛生改革を進言した時か。
あのとき、王允は女子供の感傷と切り捨てた。だが結果はどうだ。
それは都の民に熱狂的な支持を呼び、貂蝉を「聖女」として押し上げた。
その賞賛は王允にではなく、彼女自身に向けられた。
――心の奥で、わずかな嫉妬が芽生えたのを、今さらながらに思い出す。
呂布を従わせた時か。
彼女の舞はただ美しいだけではなかった。
并州の風土を織り込み、あの鬼神の心の奥底に潜む孤独へと呼びかける、計算され尽くした舞だった。
あれは誘惑ではない。魂を縛る儀式のようなものだった。
李粛の裁き。
あの時こそ、王允は彼女の本当の恐ろしさを目の当たりにした。
彼女は「恐怖」ではなく、「法」と「義」を掲げて軍を掌握したのだ。
それは王允の知る権謀術数のどれとも異質で、より深く人心を縛る方法だった。
「……全て、あやつの筋書き通りだったのか」
喉を焼くような酒をあおりながら、王允は身震いした。
自分が操っていると思っていた。だが、逆だった。
董卓への憎悪を利用され、権威を道具にされ、そして呂布という最強の剣まで奪われた。
その剣はいまや貂蝉の意のままに振るわれている。
「儂が……儂が操られていたのか」
背筋を冷汗が伝う。
脳裏には、あのとき彼女が見せた、冷徹な瞳が焼き付いていた。
か弱く従順な養女のものではない。
それは、自らを踏み台にして天下へと駆け上がろうとする覇者の眼差しだった。
「……怪物だ」
震える唇が、無意識に言葉を紡いだ。
「儂の手で、この世に解き放ってしまったのだ……あの恐るべき怪物を……」
恐怖が、嫉妬と憎悪へと変質してゆく。
自分こそが董卓を討ち、漢室を救う英雄となるはずだった。
だが、その栄誉の座を、すべて奪おうとしているのは――貂蝉。
自分が舞台を整え、主役を演じるはずだったのに、気づけば観客席に追いやられていた。
「……許せぬ……!」
彼の目に、憎悪の炎が宿った。
胸の奥で何かが崩れ、代わりに黒い炎が燃え上がる。
プライドは砕かれた。だが、その破片から、新たな執念が芽を出す。
「このままでは、いずれ儂が食い殺される……」
彼はそう結論づけた。
そして、密かに呼び寄せた腹心たちと共に、闇の中で新たな密謀を練り始める。
酒瓶が倒れ、残った酒が床へと流れ落ちる。
それはまるで、王允の中で流れ出す血のようでもあり、
やがて大きな災いを呼び寄せる予兆のようでもあった。
こうして王允の心に宿ったのは、忠義ではなく、恐怖から生まれた憎悪。
その感情は、やがて大きな嵐を巻き起こし、誰も望まぬ悲劇を生み出すことになるのだった。




