10-2:旧世代の正義
10-2:旧世代の正義
「今、董卓を討っても、我らは、天下の群雄すべてを敵に回すだけです」
私の声は、決して大きくはなかった。だが、その静かな一言が、酒と焦燥の匂いに満ちた乱雑な書斎の空気を切り裂いた。
重く垂れこめた帳の隙間から差し込む光は弱々しく、埃が舞う。散乱した文巻、転がった酒瓶。その荒れ果てた光景のただ中で、私の声だけが澄んだ響きを持って広がった。
「それは、漢室を救うことにはなりません。ただ、新たな戦乱の火種を撒くだけです」
王允の目が、見開かれた。驚愕と、理解不能と、そして何よりも――裏切られたかのような色が、その瞳に宿る。
「な、何を……言うか。董卓は国賊ぞ!」
机を叩いた彼の手が震え、駒が転がり落ちる。
「奴を討つことこそが大義ではないか! 大義を成せば、天下の諸侯は、自ずと我らに従うはずだ!」
その叫びは、必死の祈りにも似ていた。だが、私にはそれが、もはや現実から目を逸らすための、空虚な呪文のようにしか聞こえなかった。
「それは理想論に過ぎません、お父様」
私は冷ややかに、しかし情を込めて返した。
私が断ち切る言葉一つひとつは、彼にとっては刃のように鋭かっただろう。けれども、避けてはならぬ真実だった。
「北には袁紹、中原には曹操。江東には孫堅、荊州には劉表。彼らは皆、口では漢室への忠義を唱えながら、その胸の奥では天下を狙う豺狼に過ぎません。彼らは、董卓という共通の敵がいるからこそ、今は辛うじて手を結んでいるに過ぎないのです」
私は一歩踏み出し、彼の前に立った。
「もし、我らが董卓を討ったその瞬間、どうなるでしょう?」
一拍の沈黙。
「彼らはその功績を横取りし、『漢室を救った』という新たな大義名分を掲げ、我らを――董卓亡き後の新たな国賊として、寄ってたかって攻め滅ぼしにかかるでしょう」
その未来の光景が、私の目には、あまりに鮮烈に見えていた。炎に包まれる洛陽、蹂躙される人々の叫び、そしてまた、血に染まる民の笑顔。私はそれを、知っている。歴史がそう証明しているからだ。
「今の、洛陽をかろうじて押さえているに過ぎぬ我らに、彼ら全てを相手にする力は、ございません」
私の言葉は、氷のように冷徹であったが、その奥には燃え盛る炎があった。未来を変えるのだという決意の炎が。
だが――王允は、その炎を見ようとしなかった。
「……それは、戦ってみなければ分からんことではないか!」
彼は声を張り上げ、手を震わせながら駒を握り潰さんばかりに力を込めた。
「呂布の武勇があれば……奴さえいれば……!」
「武勇だけでは、国は守れません」
私は即座に切り返す。
その瞬間、王允の目に、一瞬、動揺の色が走った。だが彼は、すぐに怒りでそれを覆い隠した。
「それは、貴方様が一番よくご存知のはず。だからこそ、力なき私を、その計略の駒としてお使いになろうとしたのでしょう?」
その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
王允の顔が、絶句と憤怒の狭間で引きつる。血が逆流するかのように、その頬が赤黒く染まっていった。自らが創り上げた駒に、ここまで真っ向から反論されるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
私は畳みかける。
「我らが目指すべきは、董卓という一個人の暗殺ではございません」
「……なに?」
「彼が去った後、この中華に真の秩序と平和をもたらすことです。そのためには、盤石な地盤と、揺るぎない大義名分、そして誰からも後ろ指をさされぬ清廉な名声が必要です」
私の声は、次第に熱を帯びていた。
「私が今していることは、すべてそのための準備――破壊ではなく、創造のための準備なのです」
「……黙れ」
王允の声は、怒りに震えながらも、どこか掠れていた。
「董卓さえ殺せば、全てが解決するのだ……! 漢室の権威は、自ずと回復する!」
その言葉に縋る姿は、かつて国を憂う英邁な士大夫のものではなかった。
それは、過去の栄光に縋りつき、自分の信じたいものだけを見つめる老人の姿だった。
――私は悟った。
旧世代の、一点突破の策謀家と、董卓亡き後の世界を見据える、新世代の統治者。
その間に横たわる価値観の断絶は、もはや埋めることのできぬ深淵と化していた。
王允の瞳には、もはや私への信頼は残っていなかった。
あるのは、自分の思い通りにならぬ駒への、深い苛立ち。
そして――自分の創った人形が、いつの間にか己の意思を持ち、制御できぬ存在へと変わってしまったことへの、かすかな恐怖だった。
静寂が書斎を覆う。
酒瓶が転がり、淡い音を立てた。
私は、その音を聞きながら、心の底で、ひとつの時代が終わりを告げたのを感じていた。




