10-3:恩知らずの駒
10-3:恩知らずの駒
価値観の断絶は、やがて、隠しきれぬ感情の衝突へと発展していった。
私が冷徹に、未来を見据えて語れば語るほど、王允の顔色はみるみる朱に染まり、その眼光には、怒りと焦りと、そしてどこか怯えの色が浮かび始めていた。
「何を言うか!」
彼は、地を震わせるような声で吠えた。
「この私に、指図するつもりか! 忘れたか、お前は、私が、歌妓の中から拾い上げ、養女として、育ててやったのだぞ! ただの駒に過ぎんお前が、いつからそんなに偉くなったのだ!」
怒声とともに、机が打ち据えられた。重い木製の机が軋み、上にあった筆と硯が、無残に床へと散らばる。硯の墨が、墨色の血のように畳に広がっていく。その黒は、まるで彼の胸中の濁流そのもののようだった。
「誰のおかげで、今のお前があると思っておる!」
彼の叫びは、もはや激情に支配されていた。
「私がいなければ、お前など、今頃どこかの酒場で、男に媚びを売って生き延びるしかなかったはずだ! その恩も忘れ、私に楯突くか! この……恩知らずめが!」
罵声は鋭利な刃となって、私の胸を何度も抉る。
かつて「お父様」と呼び、私を導いてくれると思った人。その人から浴びせられる言葉は、恩義を語りながらも、実のところは、自分の誇りが踏みにじられることへの恐怖と苛立ちの叫びに過ぎなかった。
だが――私は、揺るがなかった。
私は、冷ややかな瞳で彼を見返した。怒り狂う姿の奥に潜むものが、手に取るように分かったからだ。
彼の怒りは、恐怖の裏返し。
自らが描いた連環の計が、いつの間にか自分の掌を離れ、己の理解を超えて進み始めている。その事実に怯え、追いつけぬ現実に苛まれ、彼はただ怒りに縋るしかなくなっていたのだ。
私がその弱さを悟り、微塵も動じぬ態度を示したことが、逆に彼の自尊心に火を注いだ。
「……その目は、なんだ!」
彼は震える声で唸った。
「この私を……憐れんでいるのか!」
一歩、また一歩。彼は机を迂回し、私の目前に迫った。その歩みは荒く、酒に濁った息が吐きかけられる。怒気に充ちた瞳は、理性の光をとうに失っている。
「恩知らずの駒めが……!」
彼の手が振り上げられた。大きく、重く、威圧的に。
その動きは、父が娘を打つというものではなかった。己に逆らった「駒」を、再び従順に戻すための暴力の手だった。
私は、目を閉じなかった。
逃げもせず、怯えもせず、その手を真正面から見据えた。
もし打たれるのなら、それもまた受け入れよう。私はすでに、彼の掌の中にある駒ではないのだから。
その瞬間――。
静かだが、有無を言わせぬ力を帯びた音が、書斎の扉から響いた。
ギイ……という軋み。だが、その音は、剣を抜くときの鋭さにも似ていた。
扉が開かれ、そこに二つの影が現れる。
陳宮と張遼だった。
彼らは、ただならぬ怒声に駆けつけてきたのだろう。
二人の眼差しは、私へ向けられた暴力の兆しを一目で見抜き、鋭く光を帯びた。
振り上げられた王允の手は、空中でぴたりと止まった。
一瞬の沈黙。
その場を満たしたのは、張り詰めた緊張と、誰もが呼吸を忘れるほどの重苦しい空気だった。
陳宮の眉間には、激しい怒りと、しかし理性で抑え込んだ冷徹さが走っていた。
張遼は一歩踏み込み、王允と私の間に割って入るように立ち、背筋をまっすぐに伸ばした。その手は、いつでも刀を抜けるよう腰の柄に触れていた。
私は、静かに息を吸った。
頬に届くはずだった掌の風は、宙に溶けたまま消え去り、私の覚悟は試されただけで終わった。
――父よ。
貴方が求めたのは、従順な駒だった。
だが私は、もう二度と駒には戻らない。
そして、この瞬間を目にした彼ら――陳宮と張遼。
彼らの眼差しの奥にあったのは、私を守るという固い決意と、もはや王允に従うことはないという暗黙の誓いだった。
燃えさかる怒りの果てに浮かび上がったのは、父娘の絆が完全に断たれる音。
その音を、私ははっきりと聞いた。




