8-5:理性を失った武
8-5:理性を失った武
「ぐ……あああああっ!!」
広場に、耳を裂くような絶叫が轟いた。
華雄の声だった。
呂布は、その逞しい両腕のひとつを、まるで枯れ枝をへし折るかのように、容赦なくねじり砕いたのだ。骨が弾ける湿った音が響き、関節はありえない方向へと曲がり、血管が張り裂けんばかりに浮き出している。
人質にしていた月を掴む力は、激痛のあまり一瞬で失われた。小さな身体は呪縛から解き放たれ、地面にへたり込む。私はすぐさま駆け寄り、そのか細い体を両腕で抱きしめた。震える肩が、胸元で細かく痙攣している。温もりを確かめて、ようやく私は息をつけた。
――だが、呂布の怒りは、それでは終わらなかった。
「オオオオオッ!!」
それはもはや言葉ではない。理性を焼き切られた獣の咆哮。
彼は、腕を失い完全に無防備となった華雄に向かって、鉄槌のような拳を叩き込んだ。
ゴッ。
肉が潰れる鈍い音。
続けざまにゴッ、ゴッ、と拳が顔面を打ち砕く。
華雄の鼻梁が潰れ、頬骨が裂け、血と歯が飛び散る。かつて驕り高ぶり、武勇を誇ったその顔は、瞬く間に判別不能な肉塊へと変貌していった。
それは戦いではなかった。
武人同士の勝負でも、名誉ある決闘でもない。
ただ一方的な、破壊。蹂躙。殲滅。
呂布の武は、技も駆け引きも剥ぎ取られ、純粋な暴力性だけが剥き出しになっていた。
「将軍、お鎮まりください! もう、勝負はついております!」
「将軍、それ以上は! 殺してしまいますぞ!」
張遼が、陳宮が、蒼白な顔で駆け寄る。
彼らの声は、必死の叫びというより、怯えた悲鳴に近かった。
二人は血塗れとなった華雄に拳を振り下ろし続ける呂布の背を羽交い絞めにする。屈強な兵士たち数人も必死に加わった。
だが――。
呂布の力は、常軌を逸していた。
数人がかりで押さえ込んでいるにもかかわらず、彼は容易く振り解こうと暴れ続ける。その巨躯が揺れるたび、兵士たちは必死にしがみつき、歯を食いしばり、全身の筋肉を震わせていた。
「離せっ! こいつは――貂蝉を……俺の、貂蝉を……!」
呂布の目は、血走り、焦点が合っていない。
その瞳に映っているのは、華雄ですらなかった。
彼にとって華雄は、もはや「人」ではなく、ただ「私を脅かした存在」というだけのものだった。
彼の怒りは狂気に転じ、己を制御する理性さえ燃やし尽くしていた。
ただひたすらに、私を脅かすものを消し去るという本能だけが、彼の肉体を突き動かしている。
その姿は、まさしく鬼神。
だがそれは、私が望んだ「民を守る英雄」の姿では断じてなかった。
眼前にいるのは、ただの破壊の権化、暴風のように全てを薙ぎ払う怪物。
私は、月を抱きしめながら、その恐ろしい光景を呆然と見つめていた。
兵たちの掛け声。悲鳴。張遼の声も、陳宮の声も、すべて遠くに霞んでいく。
私の胸に残るのは、ひとつの痛烈な実感。
――この怒りは、全て私のために振るわれている。
彼の激情は、すべて私に注がれている。
私が震えていたから。
私が脅かされていたから。
私が「彼の全て」だから。
その想いの深さは、想像を絶するほどだった。
同時に、その狂気じみた執着が孕む恐ろしい危うさを、私は骨の髄まで理解してしまった。
呂布という男は、私を守るために鬼神にすらなる。
だがその姿は、英雄ではなく――破壊の化身だった。
私は震えながら、抱きしめた月の温もりに縋りついた。
彼の激情を、私は決して否定できなかった。
なぜなら、それは私の存在そのものが生み出したものだったからだ。




