8-4:赤い旋風
8-4:赤い旋風
私が、絶望に打ちひしがれ、力なく立ち尽くしていた、その時だった。
「―――そこを、どけぇぇぇぇぇっ!!」
大地そのものを揺さぶるような、雷鳴のごとき怒号が、広場の空気を震わせた。
瞬間、息を呑む兵たちの視線が一斉にそちらへ向けられる。
その声は、誰にも聞き違えるはずがない。武神のごとき存在――呂布のものだった。
次の瞬間、一陣の赤い旋風が砂塵を巻き上げながら突風のように飛来した。
それは人の目で追える速さではなかった。
ただ嵐の中に赤光が閃き、地を裂く轟音と共に迫り来る。
呂布――。
燃えさかる炎の赤と同化するようなその姿は、まさしく戦場に舞い降りた修羅神であった。
火事の報告を受け、別の場所にいたはずの彼が、事態を直感で察知し、愛馬・赤兎馬に跨り駆けつけてきたのだ。
その速さはもはや馬の脚力ではない。赤い稲妻が大地を裂き、嵐の衝撃波を伴って広場を切り裂く。
赤兎馬の四肢が地を蹴るたび、轟音が鳴り響き、周囲の兵が息を呑む。
誰もが理解した。これは人間が繰り出す走りではない。
呂布が馬上にあってこそ、その武威は天に届く。
彼は一瞬にして惨状を見抜いた。
――人質に取られている月。
――蒼白な顔で立ち尽くす私。
――息を詰め、指一本動かせずにいる張遼ら兵たち。
その光景を目にした瞬間、彼の瞳からは理性の光が完全に消え失せた。
呂布にとって私は己の全てであり、この世の中心そのものだった。
その私が恐怖に震え、声を奪われている――その事実が、呂布という男の思考を焼き切ったのだ。
彼はもはや人間ではない。ただひとつの本能、「守るためにすべてを壊す」存在へと変貌していた。
「――――ッ!!」
人の声とは思えぬ獣の咆哮が彼の喉から迸った。
広場の空気が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
赤兎馬が大地を裂くように疾駆し、砂塵が竜巻となって舞い上がる。
その勢いは炎の化身のごとく、呂布と赤兎馬が一体となった赤い嵐が、まっすぐ華雄へと突進していく。
「ひ、ひぃっ……!」
華雄は、その神速に反応することさえできない。
眼前に迫るはずの未来が、あまりに速すぎて捉えられない。
ただ、目前に死が迫っている――その感覚だけが彼を支配していた。
「将軍、お待ちください! 人質が……!」
張遼の叫びが、広場に木霊した。
必死の声は悲痛に震え、彼もまた人質を案じていた。
だが、呂布の耳には届かない。
その目にはただ一人、敵を粉砕するという本能の光だけが燃え盛っていた。
腰の方天画戟を、呂布は躊躇なく抜き放つ。
空気が一瞬、張り詰めた。
次の刹那、閃光が夜を裂いた。
銀色の矛先が雷のごとき速さで投げ放たれ、一直線に華雄へ――。
私は反射的に目を閉じた。
胸が締め付けられ、呼吸すら忘れる。
終わった。華雄も、月も……この瞬間、全てが血に染まる。
――だが。
肉を貫く音は響かなかった。
代わりに広場を震わせたのは、骨が砕ける鈍音と、耳を劈く馬の断末魔の悲鳴だった。
私は恐る恐る目を開いた。
そこに広がる光景に息を呑む。
呂布が放った戟は、華雄の胸を穿ったのではなかった。
彼が逃走に用いようとした馬の脚を、正確に、無慈悲に貫いていたのだ。
「ヒヒーン!」
裂けた脚から血が噴き上がり、馬は悲鳴をあげて前のめりに崩れ落ちた。
巨体が地を揺らし、土煙が舞い上がる。
華雄は思わず体勢を崩し、その一瞬の隙をさらけ出した。
その刹那。
赤兎馬の背から、呂布は猛禽のように飛翔した。
空を裂き、燃え盛る炎の中を突き抜け、まるで戦神が舞い降りるかのように華雄の背後へと落下する。
風が唸りを上げ、兵たちの視線が釘付けとなる。
呂布の腕が雷鳴のごとく閃き、華雄の手を稲妻のように捕らえた。
その手は、月を掴み人質にしていた、あの腕だ。
「ゴキッ!」
湿った嫌悪の音が、広場全体を凍り付かせた。
華雄の絶叫が、夜空を引き裂くように響き渡る。
その悲鳴に兵たちが一斉に息を呑み、誰一人として動けなかった。
呂布の怒りは暴風そのものとなり、今まさに敵を粉砕しようとしていた。
彼の瞳にはもはや、敵も、戦場も、世界さえも存在しない。
ただひとつ――私を脅かした華雄を滅ぼす、その衝動だけが燃え上がっていた。




