7-2:毒蛇の計略
7-2:毒蛇の計略
董卓の苛立ちが、厚い空気をさらに重くしていた。
豪奢な一室に敷かれた絨毯は、彼が足を動かすたびに重苦しい音を立てる。酒の匂いと女の白粉の香りが絡み合い、吐き気を催すほど甘ったるい空気が漂う中、相国の太い指が銀の杯を握りつぶさんばかりに力を込めていた。
そんな中でも、李儒は一歩も引かず、変わらぬ冷徹な声音で言葉を紡ぐ。
「――呂布軍を、内側から切り崩すのです」
その一言に、董卓の目が細くなる。まるで、毒の匂いを嗅ぎ取った猛獣が、その出所を探るように。
「……詳しく申せ」
李儒は、静かに、しかし鋭く言葉を重ねた。
「呂布軍の中には、元々、丁原に仕えていた者たちが、いまだ数多くおります。彼らは、呂布将軍が丁原様を裏切った過去を、心の奥底で許してはおりませぬ。その中に――李粛という男がいます」
董卓の眉がぴくりと動く。
「李粛……聞いたことがあるぞ。何者だ」
「野心家にして、金に汚く、そして今の呂布将軍の方針に最も不満を抱いている一人です。金品と高官の地位を約束すれば、必ずや我らに寝返ります」
その口調は、毒蛇がじわじわと獲物を締め上げるようだった。李儒は、人の心の亀裂を探り、そこに毒を流し込むことにかけて天才的であった。
「李粛を使い、呂布軍の機密情報を我らに流させる。同時に、軍内部で貂蝉様への不満を煽るのです――『将軍は女に誑かされ、并州武人の誇りを忘れた』と。そうなれば、結束は乱れ、軍は自ら崩れ落ちるでしょう」
董卓の口元に、ゆっくりと醜悪な笑みが広がる。
「ふ、ふふ……面白い。実に面白いではないか。奉先の奴が、自分の育てた犬に足を噛まれる様を、この目で見られるとはな……! すぐに手配せよ」
「はっ」
李儒は深々と頭を下げる。その双眸の奥には、すでに計略が成功した後の光景が、鮮明に描かれているかのようだった。
――計画は迅速に動き出した。
李儒は、密偵たちを使い、呂布軍内部の不満分子を洗い出させた。
結果、中心人物はやはり李粛だった。
かつて丁原を裏切り呂布に従ったものの、望んだ厚遇を得られず、心に澱のような不満を抱えていた男。欲深さと不満が、彼を格好の標的にしていた。
密やかな会合の場、李儒は李粛に言葉の刃を向ける。
「李粛殿。貴殿ほどの器量が、呂布の下で燻っているのは、実に惜しい。……もし相国様にお仕えする気があるならば、并州刺史の地位をお約束しよう」
并州刺史――それは故郷の支配者となることを意味する。
李粛の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「……本気でございますか」
「相国様は、一度口にした約束は必ず守られるお方だ」
李儒の声は、耳に絡みつく甘い毒。
そして、李粛はあっさりとその毒を飲み干した。
――寝返りは、一瞬だった。
それから李粛は、呂布軍の古参兵――特に丁原旧臣たちを集め、酒を振る舞いながら不満を煽り始める。
彼は決して自ら批判の口火を切らず、あくまで聞き役に徹する。
「最近の将軍は、どうもおかしい」
「俺たちより、あの女のことばかりだ」
「并州魂は、どこへ行った」
こうして、不満の種は酒と共に兵たちの胸に染み込み、やがて芽吹こうとしていた。
しかし、李儒は同時に別の駒も動かしていた。
「相国様。呂布軍を内から崩すには時間がかかります。その前に、物理的な警告を与えては――」
董卓が目を細める。
「警告だと?」
「はい。刺客を送り込み、呂布の首を狙うのです。成功すれば万々歳。失敗しても、我らの武威を示し、恐怖を植え付けられます」
董卓はにやりと笑う。
「ならば、適任者がおる。……華雄を呼べ!」
華雄――その名は戦場で響き渡る猛将の名。張遼に並ぶと噂される武勇の士だが、血気盛んで短慮。
李儒の狙いは、華雄が成功することではない。
成功すれば儲けもの、失敗すれば呂布が董卓配下を殺した口実となり、大義名分を得られる。
捕らえられたとしても、両者の関係に決定的な亀裂を刻むことは間違いない。
――どの道、損はしない。
「はっ! この華雄にお任せください!」
華雄は胸を張り、闘志を漲らせる。
「并州の田舎者の首を、必ずや相国様の御前に!」
その夜――月明かりが血を予感させるように赤く滲んでいた。
華雄は数名の屈強な手下を連れ、呂布の軍営へと、闇を裂く影のごとく忍び込んでいった。




