4-3:私の戦う理由
4-3:私の戦う理由
少女は、唇を動かすことさえできずに、ただ怯えた目でこちらを見上げていた。
その瞳は、深い闇の底に沈んだ湖のようだった。あまりにも多くの恐怖を映し込みすぎて、もう新たな景色を受け入れることを拒んでいるかのように、感情の色が抜け落ちている。
──この子は、董卓の暴政が生み出した、最も小さく、最も無力な犠牲者だ。
その姿を見つめているうちに、私の胸の奥で、何かがゆっくりと軋む音を立てて崩れ落ちていった。
連環の計──。
天下の趨勢──。
そんな壮大で気高げな言葉が、途端に白々しく、欺瞞めいて響く。
結局のところ、私が練り上げている計略も、所詮は権力者同士の覇権争いにすぎないのではないか。その舞台裏で、こうして声なき民が、静かに、しかし確実に踏み潰されていく。
これで……本当にいいのだろうか。
私は息を整え、瓦礫に膝をついた。埃が舞い、煤が服に染み込む。少女の目線と同じ高さまで身を沈めると、距離が近づいたせいで、彼女の震えがはっきりと伝わってきた。
背後で護衛兵と小蘭が、息を詰めてこちらを見守っているのが分かる。誰も、この細い心の鎖を壊す勇気も方法も持たない。
「……大丈夫よ。もう、怖がることはないわ」
できる限り優しく、柔らかな声を作る。母親が子を寝かしつけるような、波紋一つ立てない湖面のような声で。
しかし、その声は彼女の心の壁を貫くことができなかった。硬く閉ざされた扉の向こうで、彼女はなおも身を竦め、後ずさる。まるで、私の一挙一動すら新たな脅威であるかのように。
私はゆっくりと懐に手を伸ばした。
そこに忍ばせてあるのは、長い道中で小腹を満たすための、小さな干し菓子──蜂蜜を練り込んだ、ひとくち大の甘味。
「お腹が空いたでしょう? これは甘くて……とても美味しいのよ。さあ、食べてごらんなさい」
掌に菓子をのせ、瓦礫に差し出す。
少女の瞳が、ほんのわずかに揺れた。差し出された菓子と、私の顔とを交互に見比べる。
その奥に、かすかに生気が戻ったように見えた。
──飢えが、恐怖を押しのけたのだろうか。
それでも、彼女の体は動かない。
私は急かさなかった。焦らなかった。
ただ静かに、その小さな心がこちらへ一歩踏み出すのを待ち続けた。
……どれほどの時間が過ぎただろう。
風が崩れた壁の隙間を通り抜け、かすかな煤の匂いが漂う中、少女はついに震える指先を伸ばした。
私の指先に、ほんの一瞬、羽根のような軽さで触れる。
──温かい。
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
この焼け跡の中で、唯一確かに息づく生命の温もり。
それが、乾ききっていた私の心に沁み渡っていく。
私はそっとその手を包み込み、菓子を掌に乗せてやった。少女は、宝石を扱うように両手でそれを包み込み、やがて小さく口に運んだ。ひとくち、またひとくち。
蜂蜜の甘さが、彼女の頬にわずかな血色を取り戻させる。
──この子を、守らなくては。
それは計算でも演技でもない。私の魂そのものから湧き上がる、偽りなき叫びだった。
これまでの私は、生き延びるために、そして勝つために計略を張り巡らせてきた。だが、今は違う。
目の前の小さな命を前にして、私は初めて、見返りなど求めない純粋な庇護欲に突き動かされていた。
この子の涙を止められないようなら、天下の涙など止められるはずがない。
そう気づいた時、胸の奥に一本のまっすぐな軸が通った。
少女は菓子を食べ終えると、まだ声は発せないものの、ほんのわずかに表情を和らげた。怯えの色が完全に消えたわけではないが、私への警戒は確かに薄れている。
私は彼女へ、再び手を差し伸べた。
「さあ、一緒に行きましょう。ここより、ずっと温かくて、安全な場所へ」
少女はしばらく私の顔と手を見比べていたが、やがてこくりと小さく頷き、その小さな指で私の手をぎゅっと握った。
──その瞬間、私は悟った。
私はこの子の未来を背負う。
そして、この子のような子供たちが、二度と涙を流さなくても済む国を、この手で創るのだと。




