3-14:火種
3-14:火種
陳宮が去った後、広間には奇妙な沈黙が落ちた。
それは、誰かがふいに息を止めたような、重く澱んだ沈黙。
遠くの回廊からは、下僕が足早に通り過ぎる足音がかすかに響いてくる。だが、この場の空気は外の喧騒から切り離され、閉ざされた器の中に封じ込められたようだった。
私は卓上の茶器を持ち上げた。
――指先がわずかに震えている。
自分でも気づかぬうちに、その揺れは茶器の表面に映る光を細かく震わせ、淡い水面のような波紋を作っていた。
「……貂蝉殿、あやつと何を話した」
低く鋭い声が、静けさを切り裂く。
呂布が私を見据えていた。
その眉間には深い皺が寄り、光を呑み込んだ瞳の奥には、言葉にできぬ焦りが微かに滲んでいる。
方天画戟の柄を握る手に力がこもり、節くれ立った骨が白く浮き出していた。
それは戦場で敵を睨むときの構えと同じだったが、今向けられている矛先は――私だった。
私はふっと小さく微笑み、首を横に振った。
「ただの世間話です。ご心配には及びません」
声は穏やかに響いたが、その裏に感情の影を見せぬよう、慎重に整えた。
呂布はしばし私の瞳を探るように見つめていたが、やがて視線を逸らし、深く息を吐いた。
しかし、その背中に纏わりつく張り詰めた気配は、微塵も薄れていなかった。
――彼の胸中には、理由の掴めない苛立ちと、不安が渦巻いている。
私とあの陳宮という男の間に、ほんの一瞬交わった火花。
それは、まだ形を成すには至らない小さな閃光に過ぎないが、呂布の心を落ち着かなくさせるには十分だった。
◇
同じ日の夕刻。
洛陽の宮廷、その奥深く。
薄暗い広間に漂うのは、熟れた果実のように重い香と、温く濁った酒の匂い。
蝋燭の炎が盃の中でゆらめき、天井近くの梁に長い影を揺らしていた。
「相国、あの娘のことは……」
李儒が言葉を選びながら口を開く。
その声には慎重さが滲んでいた。相手はこの世で最も怒らせてはならぬ男――董卓。
相国は盃を回しながら、濁った酒を喉へ流し込む。
脂ぎった頬が光り、目尻にいやらしい笑みが浮かんだ。
「呂布の許嫁だそうだな……面白い」
その声音には、金や領地を望むときのような単純な欲望ではない、もっと厄介で、ぬめりを持つ執着が潜んでいた。
それは、獲物を見つけた獣の呼吸。
董卓は本能的に察していた。
あの女――貂蝉は、ただの器量良しではない。
その立ち居振る舞い、その瞳の奥に潜む得体の知れぬもの。
宮女や妓女のように飾られ、与えられた役割の中だけで咲く花とは違う。
自らの意思で風を選び、根を伸ばす花だ。
そして、その違いこそが、董卓の支配欲を疼かせていた。
あれを手中に収めれば、自分は何を得られるのか――その答えがまだ見えぬほどに、彼の興味は深まっていく。
「呂布には惜しい女だ……ふん」
盃の中で酒が波立ち、光を反射して揺れる。
その揺らぎは、まるでこれから広がる火の粉を映し出すかのようだった。
◇
洛陽の空は、紫から群青へと沈み、夜の帳が宮城を包み始めていた。
まだ目には見えぬ煙が、街の空気の奥に潜んでいる。
呂布の胸に芽生えた小さな執着。
董卓の底知れぬ欲望。
それらは今のところ遠く離れた火種でしかない。
だが、風が吹けば――
その炎は瞬く間に広がり、誰の手にも負えぬ業火となるだろう。
その業火が焼くのは街か、人か、それとも心か。
私は、その予兆を胸の奥でひそやかに感じ取っていた。
そして、計略の糸をさらに強く、確かに握りしめた。
糸の先には、まだ見ぬ未来が絡まり、熱を帯び始めている。




