3-11 陳宮の絶望
3-11 陳宮の絶望
その頃、洛陽の片隅。
かつて賑わいを誇ったはずの通りの端に、煤けた土壁が辛うじて形を保つ一軒の家があった。瓦は半ば剥がれ、壁のひびには冬の冷たい風が容赦なく吹き込み、夜になれば鼠が這い回る。そこに、一人の男が身を潜めていた。
陳宮――。
若くして地方官に抜擢され、清廉にして聡明、冷静な判断力と鋭い弁舌で名を馳せた才人。彼の名は、かつては同僚や民からも「未来の柱」と称えられた。しかし、その才を振るうべき朝廷は今や董卓の暴虐に支配され、法も秩序も腐り果てていた。
都の空気は重く、腐臭が漂う。
権力者は賄賂と威圧で地位を保ち、正義を口にする者は嘲笑と圧迫に晒される。陳宮はそれを黙って見ていられなかった。だが、反発すれば自分も家族も無事では済まない。結果として彼は、己の信念を守るために官を辞し、洛陽の片隅で日陰者のように暮らす道を選んだ。
「……この国は、もう終わりだ」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
辞職して以来、陳宮の生活は、朝に酒をあおり、昼に古書をめくり、夜にはそのまま寝台に倒れ込むという怠惰な日々に成り果てていた。
床の隅には、何度も書きかけては投げ捨てられた木簡が山のように積もっている。その文字には、己の知恵を信じながらも、活かす場所を失った者の苦悩と諦念が刻まれていた。
董卓――乱世を牛耳る暴君。
その刃の先には、天下無双と称される武勇の持ち主、呂布奉先がいる。
「……天下第一の武を持ちながら、己の欲のために国賊の犬となるとは……愚か者め」
酒の苦味が喉を焼くたび、陳宮の胸の奥で怒りと失望が渦巻く。
関東の諸侯は董卓打倒を掲げつつも、実際には領土と権勢の奪い合いに明け暮れる狼の群れにすぎない。司徒・王允は忠義厚く志も高いが、あまりに古風で、今の乱世を切り抜けるには脆すぎる。
どこにも、本物の希望はない――そう思っていた。
そんなある日、街の辻で妙な噂を耳にする。
「司徒・王允様のご息女、貂蝉様が炊き出しを始められたらしい」
「都の井戸を清め、道を掃き、病を防いでおられるとか」
最初、陳宮は鼻で笑った。
「女子供の慈善ごっこだろう。王允が己の名声を飾るための芝居にすぎぬ」
しかし噂は消えない。それどころか日を追うごとに広まり、ついには街角のどこへ行ってもその名を耳にするようになった。
おかしなことに、実際に都の衛生は改善され、飢えや病に沈んでいた民の顔には、生気と笑みが戻りつつあるという。
半信半疑のまま、陳宮は久方ぶりに街へ足を運んだ。
かつて仕えた官職時代には毎日のように歩いた道も、今は瓦礫や汚泥で荒れている。だがその一角、陽光が差し込む広場には異様な光景が広がっていた。
長蛇の列を作る民衆。
痩せた子供たちが器を抱えて笑い、老人たちが互いに支え合って進む。
その先で、一人一人に温かな粥を手渡す若き女性がいた。
――貂蝉。
天女のごとき微笑みが、行列に並ぶ者たちの疲れを溶かしていく。
だが陳宮が息を呑んだのは、その容姿だけではない。
彼女の炊き出しは、ただの施しではなかった。
失業者を清掃や井戸の手入れに雇い、労賃を与えることで生計を立てさせる。さらに、その善行を効果的に街へ広めるため、見物人や行商人を巧みに巻き込み、評判を意図的に拡散している。
「……馬鹿な。王允殿にこれほどの計略はない。ならば……誰だ? この聖女の背後にいるのは――」
陳宮はその後も数日、市井に身を置き、噂の源を探り続けた。
やがて資金の流れに行き着く。そして、その財を商人たちから「協力」という名のもとに引き出しているのが、あの呂布奉先だと知った瞬間、背筋に冷たい汗が走った。
董卓でも、王允でもない、第三の力。
聖女と鬼神――この奇妙な組み合わせの奥に、乱世を揺るがす新たな可能性が眠っているのではないか。
陳宮はまだ呂布と面識はなかった。
しかし、この計略の糸を引く人物の正体を突き止めるため、彼は己の観察眼を研ぎ澄ませ、市井の片隅からじっとこの勢力を見つめ続けた。
その先に待つのが、己の運命を変える出会いであることを――この時の彼は、まだ知る由もなかった。




