2-7:鬼神、現る
2-7:鬼神、現る
私が「聖女」として神格化されていくという噂は、当然、ただの街角話では終わらなかった。
都の支配者である董卓や、その腹心たちの耳にも確実に届いていたに違いない。
あの肥え太った覇権者と、その取り巻きたちがこの動きをどう見ているのか——正直、まったく気にならないと言えば嘘になる。だが、いま私が注ぐべき視線は、民の方だ。
私の人気が高まれば高まるほど、董卓も王允も、軽々しく私を扱うことはできなくなる。
権力者をも束縛する力——それは剣や兵馬ではなく、無数の心を束ねた「民衆の支持」だ。
それは時に、最強の盾となり、同時に最も鋭い刃ともなる。
その日も、私はいつものように炊き出しの様子を見守っていた。
白い湯気が冬の空に溶け、兵たちの掛け声が響き、器を手にした人々の列がゆっくりと進んでいく。
小さな笑い声や、子供が粥をこぼして泣きじゃくる声も混じっている。
——しかし、次の瞬間、その穏やかな空気が一瞬で変わった。
広場の入り口付近で、低いざわめきが起こったかと思うと、それは波紋のように広がり、やがてぴたりと静まった。
代わりに、肌にまとわりつくような重たい緊張が、あたり一面を覆う。
まるで、遠くから冷たい嵐が迫ってくるのを感じるような圧迫感——息を吸うのも忘れさせるほどの、圧倒的な威圧。
民衆の視線が一斉にそちらを向く。
そして私も、その「異質な影」を目にした。
見慣れぬ鎧を纏った、屈強な武将の一団が馬にまたがったままこちらへと進んでくる。
その進軍の歩調は、ゆっくりでありながら、一歩ごとに地を揺らすような確実さがあった。
鎧は戦場の煤と血で黒ずみ、刃こぼれした武器が彼らの腰で鈍く光る。
彼らの周囲の空気には、王允配下の兵士たちとはまるで違う、荒々しい匂いが漂っていた——鉄と血、そして死の気配。
民衆はその圧に耐えられず、蜘蛛の子を散らすように道を空ける。
その動きは命令されてではなく、本能でそうしているのが分かる。
あれは、戦場を何度も潜り抜け、生死を分ける修羅場を知る者たちの放つ圧だ。
そして、その一団の中心——ひときわ大きな影があった。
男の身の丈は六尺を優に超え、鎧の下からでもわかるほどの筋骨隆々とした肉体。
黒地に獣の紋様が刻まれた鎧は、光を吸い込み、まるで生きた野獣がそのまま人の形を取ったかのようだ。
腰には、鞘に収まっていてなお異様な存在感を放つ巨大な戟。
彼が跨る馬もまた、並の軍馬より一回り大きく、その双眸は不気味に赤く輝いている。
その姿は——まるで冥府から来た戦神。
その男の鋭い鷲のような目が、ざわめく群衆を縫うように動き——そして、正確に私を捉えた。
瞬間、背筋に冷たいものが走る。
名が、脳裏によぎった。
呂布——奉先。
董卓の養子にして、天下無双と謳われる鬼神。
私が、この先の計略で必ず手に入れなければならない、最大の駒。
彼は馬を下りると、迷いもためらいもなく、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
一歩ごとに、大地がわずかに震えるような錯覚さえ覚える。
兵たちが緊張に顔を強張らせ、私の前に立ちふさがろうとした——が、私は手でそれを制した。
いま退けば、それは怯えだと悟られる。
その瞬間、主導権は彼のものになる。それだけは避けなければならない。
呂布は、私の数歩手前で立ち止まり、値踏みするように全身をじろりと見た。
その目は、これまで出会ったどの男の目とも違っていた。
そこには、女を欲する獣のような本能的な欲望だけでなく、
美しいもの、稀有なものを見つけたときの子供のような純粋な好奇心——
そしてそれを力ずくで奪い、誰にも渡さぬという猛禽類のような独占欲が、恐ろしいほど自然に同居していた。
——この男は、欲しいと思ったものはどんな手を使っても手に入れる。
そういう人間だ。
そして、今この瞬間、彼の「欲しいものリスト」に、私は加わった。
「貴様が、貂蝉か」
野太く、それでいてよく通る声が空気を震わせる。
私の名を呼ぶその響きには、既に所有を前提とした響きがあった。
「近頃、都で評判の仙女とは、司徒殿の御息女のことだと聞いた。……なるほど、噂に違わぬ美しさだ」
口元がゆっくりと吊り上がる。
その笑みは、人の笑顔ではない。
牙を隠しもしない、狩る者の笑みだ。
その瞬間、私の背筋を、ぞくりとした興奮が駆け上った。
——来た。
鬼神は、ついに私の目の前に現れたのだ。




