2-8:面白い女
2-8:面白い女
その瞬間、広場は息を呑んだ。
まるで時が止まったかのように、炊き出しのざわめきは水面に石を落とした後の波紋のようにすっと消え去り、静寂が訪れた。
その沈黙は不自然なほど濃く、まるで空気が凝固したかのようだった。
人々は恐怖と好奇の間で揺れ動く瞳をしていた。彼らの視線の先に立つのは、鬼神と謳われる男。そして、その鬼神の目の前に立つのは、仙女と噂される私――貂蝉。
二人の間に漂う緊張感は、細い糸一本で繋がれた刀剣のように鋭く、切れれば血が飛び散るのではないかと思えるほどだった。
背後から、小蘭の震える気配が伝わってくる。
彼女の指先が、私の衣の裾をかすかに掴んでいた。その小さな力に、私は一瞬だけ彼女を振り返りそうになった。だが――しなかった。
ここで一歩でも引けば、私は彼に「怯えた」と刻まれる。それは決して許されない。
彼の目は獣のそれだった。狩るために相手を見据える視線。
けれど、その奥には別の光が潜んでいる。欲望だけではない、希少なものを前にしたときの純粋な輝き――そして、それを必ず手中に収めるという獰猛な決意。
私はその光を正面から受け止めた。
「お噂はかねがね。鬼神と謳われる呂布将軍にお会いでき、光栄に存じます」
私の声は、鈴を転がすように澄んでいた。恐怖や緊張の色は一切混じっていない。
その響きは、広場に集まった民衆の耳を通り抜け、呂布の胸奥にまで届いたはずだ。
呂布は目を細め、口角をわずかに上げた。
「……ほう」
短いその一言の中に、意外の色が滲んでいる。おそらく彼は、私が震えて言葉を失う姿を想像していたのだろう。
「俺の名を知っていて、その態度か。肝が据わっているらしいな」
「将軍の武勇は、天下に知らぬ者はおりません。私も、その一人に過ぎませぬ。ですが――」
私は一度言葉を切り、彼の目を真っ直ぐ見返した。
その瞳の奥には、戦場の血と煙を何百、何千とくぐり抜けた者の魂が宿っている。それを見据えながら、私はためらわず言った。
「その武勇が、民を苦しめるためではなく、民を守るために振るわれるのであれば、将軍は真の英雄として、後世まで語り継がれることでしょう」
空気が、変わった。
その場にいた誰もが息を呑み、周囲の兵は今にも剣に手をかけそうなほどに緊張している。
呂布の表情が消え、ただ私を見つめていた。
おそらく、誰もこれまで呂布にそんな言葉を投げかけたことはない。
武勇を称える声はあっても、その使い道を問う者はいなかっただろう。
私の言葉は、彼の虚を突き、そして――心の奥に、ほんのわずかながら波紋を生んだ。
数秒の沈黙の後、彼は突然、腹の底から響くような豪快な笑い声を上げた。
「はっはっは! 面白い! 実に面白い女だ! 俺に説教をするか、貴様は!」
その笑い声に、兵たちの緊張が少し緩む。
だが私は、彼が怒っていないことを悟ると同時に、この男の中にある「子供のような好奇心」に気づいた。
呂布は、力で奪うだけの獣ではない。珍しいものには惹かれ、その価値を確かめたくなる――そんな危うい純真さを持っている。
「いいだろう。その言葉、覚えておいてやる。だが、今はこいつだ」
彼は炊き出しの鍋を指差す。
「俺の兵たちにも、その粥を食わせてやれ。こいつらも、都の治安維持で疲れているんでな」
それは命令だった。強者特有の、拒絶を許さぬ響き。
だが私は、逆らわず、しかし媚びずに答えた。
「もちろんでございます。呂布将軍の兵士の方々も、この都を守る大切な方々。いくらでも、召し上がってくださいませ」
呂布の眉が、かすかに動く。私の返答が予想外だったのだろう。
彼はやがて満足げに頷き、「ふん、話の分かる女だ。気に入ったぞ」と言い残して踵を返す。
その背は嵐のようだった。去っていくのに、なお余韻として空気を震わせる。
だが私の胸の奥では、静かに炎が燃えていた。
衛生改革も、炊き出しも――すべてはこの瞬間のための布石だった。
計らずして、最高の形で自己紹介を果たした私は確信していた。
彼の記憶から、私の名が消えることは、もうない。




