2-5:聖女、最初の舞台へ
2-5:聖女、最初の舞台へ
王允に、私の提案は一顧だにされなかった。
その事実が胸の奥に突き刺さり、書斎を追い出された私は、重たい扉が背後で閉じる音を聞きながら、唇を強く噛みしめた。
――甘くはない。
わかってはいた。彼は一介の少女の言葉に耳を傾けるような柔らかな人物ではないし、何より彼の胸中は「董卓討伐」という一点に凝り固まっている。それ以外の策など、どれほど理にかなっていようとも、彼にとっては塵に等しい。
けれども、諦めるわけにはいかない。
正面から攻めて砕けたのなら、次は横から、あるいは裏から――どこからでも切り込むまで。
夜が更け、屋敷の廊下を包む灯火が橙色の揺らめきを増す頃、私は密かに一人の人物を呼び出した。
王允が最も信頼し、家政全般を取り仕切る家宰――張謙。
長年、主家に仕えてきたその老臣は、皺深い顔に穏やかな眼差しを宿しながらも、その忠誠心の鋭さは刃にも勝ると評判だった。
「……お嬢様、私に何かご用でしょうか」
部屋に入ってきた張謙は、やや戸惑いを隠せぬ様子で私を見た。
私が彼に頼みごとをすることは滅多にない。ましてや、こうして夜更けに呼びつけるなど、前代未聞だろう。
私は深く一礼し、昼間に王允へ提案した策――井戸と厠の分離、街の清掃、粥の炊き出し、そして善行を広める伝播の計――を、言葉を選びながら、ひとつひとつ丁寧に説明した。
その声音は落ち着いていたが、胸の奥には焦りと熱が入り混じっている。
「張謙殿。貴方も……今の都の惨状を、憂いておられるはずです」
「……それは、もちろん」
老臣の答えは短かったが、その皺の刻まれた眉間に宿る影が、私の言葉の重さを裏付けていた。
「このままでは、都は董卓を討つ前に病で崩れ落ちてしまいます。
民の体力は既に尽きかけている。飢え、汚れた水、疫病――そのどれもが、人の命を静かに奪います。
そうなれば、司徒様が長年抱いてこられた漢室再興の悲願も、すべて水泡に帰すでしょう」
私は視線を真っ直ぐに向ける。
「私の策は、決して甘い慈悲などではありません。これは――戦の準備です。
人心を武器とし、病を防ぎ、兵と民を守る。董卓を討つ土台を築くのです」
部屋の空気が、ぴたりと張り詰めた。
張謙は腕を組み、長い沈黙の中で何かを量っていた。
やがて、低い声が返る。
「……ですが、旦那様は既にお嬢様のご提案を退けられたのでは?」
「ええ。それは、私が未熟で、お父様の心を正しく掴めなかったから。
けれども――」私は一歩踏み出した。「貴方のように、お父様が最も信頼するお方から改めて説いていただければ……お父様も、あるいはお考えを改めてくださるやもしれません」
その瞬間、私は深々と頭を下げた。
畳に額が触れそうなほどに。
「すべては、漢室のために。そして、お父様の大願を成就させるために」
しばしの間、聞こえるのは夜風に揺れる障子の微かな音だけだった。
やがて、張謙の息が少し長く吐き出される。
「……分かりました、お嬢様。この老いぼれ、どこまで力になれるかは分かりませんが……もう一度、旦那様にご進言してみましょう」
胸の奥が、ふっと温かくなるのを感じた。
翌朝――
陽が昇るよりも早く、王允は張謙を伴って私の部屋を訪れた。
戸口に立つその姿には、まだ昨日の不機嫌さが残っている。だが、怒りの炎はすでに鎮火していた。
「……貂蝉よ」
重々しい声が響く。
「昨夜、張謙から改めてお前の話を聞いた。お前の言うことにも、一理あるやもしれん」
その言葉に、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
「よかろう。お前の策、試してみる価値はあるやもしれん。だが、覚えておけ。これは、あくまで董卓を討つための布石だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「はい、お父様! ありがとうございます!」
思わず、声が弾んだ。
安堵と喜びが混ざり合い、自然と笑みがこぼれる。
こうして――王允の打算的ではあっても確かな承認を得て、私の最初の計画はようやく動き出すこととなった。
その日の午後。
屋敷は急に慌ただしくなった。
鎧を着た兵たちが、洛陽の裏路地で戸惑いながらも、溜まった汚物を処理し、積もったごみを運び出す。
井戸の周りは清められ、悪臭の漂う路地は少しずつ息を吹き返していった。
厨房では、大きな羽釜がいくつも並び、白い湯気が立ち上る。
炊きたての米の甘い香りが廊下まで漂い、巨大な鍋の中で粥がとろりと煮えていく。
かき混ぜる杓文字の音が、まるで舞台の太鼓のように規則正しく響いた。
そして、王允の意を受けた者たちが街へ散り、「司徒様が、我ら民のために立ち上がってくださったぞ」と噂を広めていく。
それは雪解けの水が川に流れ込むように、静かだが確実に広がっていった。
私は、質素ながらも清潔な衣に着替え、小蘭を伴って炊き出しの現場へ向かった。
白い息を吐きながら歩くたび、胸の奥に高鳴りが広がる。
――これから始まるのは、聖女・貂蝉の、最初の舞台。
役者は、舞台に上がらなければ意味がない。
私は、まさにその幕が上がる瞬間に立っていた。




