2-3:慈悲という名の献策
2-3:慈悲という名の献策
私は自室に戻ると、小蘭に静かに命じた。
「筆と硯、それから……木簡を」
まだ紙が貴重品であるこの時代、考えをまとめるには、この薄く削った木の板が最適だった。すらりとした手つきで用意する小蘭は、私が突然、学びの姿勢を見せたことに驚いているようだったが、それでも何も言わず、恭しく道具を並べてくれる。
私は軽く頷き、彼女を下がらせた。部屋が静まり返ると、空気がわずかに重くなる。
遠く、窓の向こうからかすかな声が漂ってくる――病に侵された者の苦しげなうめき、飢えた子どもが母を求める泣き声。そのどれもが、この都の現実を突きつけてくる。胸の奥にひやりとしたものが走り、同時に、それを利用する冷徹な思考が顔をのぞかせた。
このままでは、董卓を討つ前に、都は内側から崩れ落ちるだろう。
仮に――「連環の計」が功を奏し、董卓を討ったとして、その先に残るのは何だ?
私の名は、呂布を誑かして英雄を破滅させた『傾国の妖姫』として、後世まで語られるかもしれない。民の憎悪は、長く鋭い刃となって、私を何度でも突き刺すだろう。そんな未来は、耐えがたい。
そうじゃない――。
私が目指すのは、民を救う『聖女』としての名声。何者にも揺るがぬ、絶対的な支持基盤。
それがあれば、この乱世を私の望む形へと導く力になる。民の心を掴みさえすれば、権力者などいくらでも替えが利く。私が最初に挑むべきは、戦場ではなく、人心の戦いだ。
筆をとると、不思議な感覚が指先を走った。滑らかに流れる筆跡――それは、この身体の持ち主が培った教養そのものだった。私の意思と、彼女の記憶が、筆の先でひとつに溶けていく。木簡の上に、私の最初の行動計画が静かに記されていった。
翌朝。
私は入念に身支度を整え、王允の書斎を訪れた。昨日までの憂いを帯びた顔は消え、そこには国を思う少女の健気さと覚悟が宿っている――ように見せかけた。すべて計算ずくの表情だ。
髪は小蘭に質素に結わせ、衣は淡く落ち着いた色を選んだ。華やかさよりも清廉さを演出し、見る者に「誠実さ」と「知性」を印象づけるためだ。
「お父様、昨夜は眠れぬほど考えました。そして、娘の浅知恵ではございますが……一つ、お力になれるやもしれぬ策がございます」
私の言葉に、木簡をめくっていた王允が眉を上げた。
「ほう? お前が国事についてか。歌と舞以外には興味がないものと思っていたが……申してみよ」
思いがけぬ申し出に、彼の目にわずかな興味が宿る。狙いどおりだ。
「はい。戯言と聞き流していただいて結構です。ただ……一つ、気になることがありまして」
私は、心配そうな娘を完璧に演じながら、一歩踏み出して机のそばに膝をついた。距離を詰め、彼の庇護欲を刺激するための動きだ。
「昨日、都を見て回り……病に苦しむ多くの民の姿を目の当たりにいたしました。このままでは、恐ろしい疫病が蔓延いたします」
「ふむ。それがどうした。兵が強ければ、疫病など……」
「お父様――」私は言葉を遮り、静かにしかし力強く続けた。
「戦で失われる兵よりも、疫病で失われる兵の方が多いと、古の兵法書にもございます。屈強な兵士も、ひとたび病に倒れれば赤子同然。何より、民は国の根です。その民が倒れれば……董卓を討ったとして、誰が喜びましょう。廃墟の主となることが、お父様のお望みですか?」
王允の目がわずかに細まる。私はさらに言葉を重ねた。
「我らの行いは、天に認められた義挙でなければなりません。その証として、まず慈悲を示すべきではありませんか。暴君が民を虐げ、忠臣が民を救う――この構図を天下に知らしめれば、我らの大義は揺るぎないものとなります。病に苦しむ民を救うことこそ、天が王司徒様をこの国の真の主として選ばれた証となるのです」
その瞬間、王允の眉がぴくりと動いた。
彼の胸奥に潜む自尊心――天命を受けた男でありたいという欲を、私は確かに突いた。
「……それで、具体的にはどうしろと申すのだ」
低く問う声。私はその響きに、内心でほくそ笑む。もう、彼は半分こちらの土俵に足を踏み入れている。
「はっ。まず一つは――都の『浄化』にございます」




