2-2:見えざる敵
2-2:見えざる敵
董卓軍の兵士たちによる横暴を目の当たりにした後も、私たちは沈黙のまま都の奥へと歩みを進めていた。
街の空気は、湿った埃と人の汗の臭いに満ちている。どこかで腐った野菜でも放置されているのだろうか、鼻を突く酸味がときおり風に乗って流れてくる。
小蘭はすっかり怯えてしまい、私の袖をまるで命綱のように握りしめていた。その指先は冷たく、微かに震えている。護衛の兵士たちも、表情を硬くしながら絶えず周囲を見回しているが、その目の奥には早く屋敷に戻りたいという焦りが隠せない。
ただひとり、私だけが冷静だった。いや、冷静であろうと自らを律していたと言うべきだろう。表面の穏やかさとは裏腹に、胸の奥では貪欲な炎が揺らめいている。この都の病巣を、根の奥深くまで暴き出したい。その欲求が、私の視線を鋭く研ぎ澄ませていた。
やがて、視界が開けた。人通りの多い通りから少し外れた場所に、小さな広場のような空間があり、その中心には石造りの井戸があった。周囲には、男も女も、年老いた者も、幼子を抱いた母親も、それぞれが桶や甕を抱えて長蛇の列を作っている。生活用水を得るための共同の井戸なのだろう。
その列に並ぶ人々の顔は、どれも疲弊していた。頬はこけ、唇は乾き、皮膚には薄く埃が張り付いている。長く待たされる苛立ちがわずかに滲み出ているが、それすらも声に出す気力は残っていないようだった。
しかし、私が戦慄したのは、その光景ではなかった。
井戸からほんの数歩先――そこに、生活排水や糞尿が溜まり、ゆっくりと腐っていく場所があったのだ。木の囲いや石の仕切りなどなく、ただ地面が踏み固められた一角。そこが暗黙の了解で「汚物捨て場」として使われているのだと、ひと目でわかった。
周囲の地面はぬかるみ、茶色く濁った水がじわじわと広がっている。その水は、雨水と混じり合いながら、まるで忍び寄る毒のように井戸の方へと染みていく。
現代日本の衛生観念で育った私にとって、それは悪夢のような光景だった。これは「不衛生」などという生易しい言葉で済むものではない。まさに毒を自らの喉へ注ぎ込んでいるのと変わらない行為だ。
「……あれでは、病気になる」
気づけば、胸の奥の声が口から漏れていた。
井戸の列に並ぶ人々を改めて観察すると、その顔色は一様に土気色で、目の下には深い隈が刻まれていた。時折、誰かが喉の奥から重く湿った咳を吐き出す。その咳には粘ついた音があり、聞くだけで肺の奥が痛くなるような感覚を覚える。
無数のハエが飛び交っていた。黒光りする羽が不吉な光を反射し、低い羽音が耳を刺す。その小さな死の使者たちは、汚物の上を這い回り、やがて人々の桶や顔に止まる。病原菌を運ぶ見えざる凶器が、今まさにこの場で人の命を蝕んでいた。
私は歴史を知っている。戦で命を落とす者よりも、劣悪な衛生環境がもたらす疫病で死ぬ者の方が、はるかに多い。コレラ、チフス、ペスト……その名を口にせずとも、背筋が粟立つ。見えざる敵は剣や槍よりも容赦なく、効率的に、静かに命を奪っていくのだ。
董卓や呂布といった「見える敵」にばかり人々が心を奪われている間に、この都は足元から確実に、静かに蝕まれている。反董卓連合が旗を揚げるよりも早く、洛陽は病で滅びるかもしれない――そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……小蘭、屋敷に戻りましょう」
「はい、お嬢様。お疲れになりましたか?」
「ええ、少し……心が、痛みます」
それは偽りのない感情だった。だが同時に、私はその痛みすら利用しようとする冷徹な自分に気づいていた。この二つの自分――情を持つ私と、計算で動く私――を抱えたまま、この狂った世界で生き抜かなければならないのだ。
屋敷に戻ると、王允の様子をうかがった。彼は書斎で家臣たちと、今後の董卓対策について議論している。聞こえてくるのは、いかに兵を集めるか、どの武将を味方につけるか、という戦の話ばかり。
私は書斎の前を通り過ぎるふりをして、悲しげにため息を漏らした。その仕草ひとつにも、綿密な計算を込めて。
「お嬢様?」
家臣の一人が気づき、声をかけてきた。私ははっと顔を上げ、慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。お話を邪魔するつもりは……ただ、今日の都の様子を拝見して、あまりの惨状に胸が痛んでしまいまして」
その言葉に、王允が顔を覗かせた。深く刻まれた皺が、苛立ちと憂慮を物語っている。
「都の様子だと? 董卓が支配してからというもの、日増しに悪くなっておる。すべてはあの逆賊のせいよ」
「はい……ですから、一日も早く董卓様を……」
私が同意を示すと、王允は満足げに頷いた。私の言葉を、自分の意見への賛同と受け取ったのだろう。
「うむ。そのためにも今は力を蓄えねばならぬ。董卓さえ討てば、すべては元に戻る」
やはり、この人の目は董卓個人への憎悪に凝り固まっている。民の生活という国の根幹には目もくれず、民衆の苦しみをただ大義名分の材料としてしか見ていない。
――この人では駄目だ。
彼を動かすには、彼が理解できる「利」を提示するしかない。人心を掌握することは、力を得るための戦略だと、私が示してやらねばならないのだ。




