2-1:裏路地の悪臭
2-1:裏路地の悪臭
決意を固めた翌日、私の世界は、外見こそ静かで何も変わらないように見えながら、実際にはすべてが劇的に変わっていた。
もはや、運命に怯えて泣き暮らすだけの、ただ守られることを待つ無力な少女ではない。
私の目は、この屋敷の一つひとつを、洛陽の一呼吸を、まるで戦場の将が地形を見極めるように分析し、利用価値を量る目へと変わっていた。
絹の衣擦れの音さえ、私には情報だった。
侍女たちの何気ない噂話、庭師が剪定する枝葉の香り、廊下を通り抜ける風が運ぶ土と花の匂い――その一つひとつが、この乱世を生き延び、そして動かすための断片。
泣いている暇などない。動かなければ、私の未来は誰かの手で勝手に塗り潰されてしまう。
まず私は、養父・王允のもとへ向かった。
父と娘の情愛を求めるのではない。臣下が主君に謁見するように、深く頭を垂れ、慎重に言葉を選んで口を開く。
「お父様……お願いがございます。三日も臥せってしまい、体がすっかり鈍ってしまいました。侍女の小蘭を連れ、ほんの少しだけ、都の空気を吸うことをお許しいただけませんか」
その声音は、弱々しさの奥に芯を秘めたもの。眉をわずかに寄せ、瞳に薄く憂いを滲ませる――昨夜、鏡の前で幾度も練習した表情だ。
王允が、文机に山積する木簡から顔を上げた瞬間、一瞬、彼の目にわずかな驚きが浮かんだ。
それは父の温もりある眼差しではない。
彼にとって私は、これから「盤上」に差し出す一枚の駒。計画を進めるための道具が、損傷なく使えるかどうかを見極める冷徹な目だ。
「……よかろう。だが、決して一人になるな。護衛を数名つけよう。今の洛陽は、いつ何が起こるかわからん」
「ありがとうございます、お父様。ご心配、痛み入ります」
内心で小さく拳を握る。
第一関門突破。
この屋敷の支配下にありながら、自分の意思で動くための、ささやかで、しかし確かな一歩だ。
小蘭と数名の護衛兵を連れ、屋敷の門を出る。
重厚な扉がきしみを上げて開き、私の前に洛陽の街が広がった。
表通りは、まだ漢王朝の都の顔を保っている。
石畳を高価な馬車が滑るように進み、絹を纏った役人や裕福な商人が行き交う。
だが彼らの顔には、共通して影が落ちていた。会話の声は低く、視線は常に周囲を探る。
この都を覆う空気は、晴れた日の空のように明るいものではなく、鈍色の雲が低く垂れ込めたまま動かないかのようだ。
だが、私が見たいのはこの化粧された表層ではない。
洛陽の「本当の顔」は、その裏に隠れているはずだ。
「小蘭、あちらの道へ行きましょう」
私が指差したのは、人通りの少ない裏路地。そこからは、鼻腔を刺すような酸っぱく腐った匂いが風に乗って漂ってくる。
「お嬢様、そのような場所は……お召し物が汚れてしまいます」
小蘭は困惑を隠さず眉をひそめる。私の衣は繊細な絹、汚れれば一瞬で価値を失う。
「大丈夫よ、気をつけます。それに……都の本当の姿を、この目で見たいの」
純粋な好奇心を装った瞳に、小蘭は抗えなかった。「すぐ戻ります」と私が微笑めば、彼女はため息まじりに頷き、護衛兵たちも渋々ながら後に続いた。
一歩、裏路地へ。
途端に、腐敗と排泄物と湿った土の混ざった悪臭が全身を包む。
地面はぬかるみ、溝には汚水が淀み、蝿が群れている。
痩せこけた犬が骨ばった体を揺らしながら残飯を漁り、私たちを警戒して低く唸った。
路地の壁にもたれた人々は、生きてはいるが、魂の抜けた瞳をしている。誰かが吐いたものが地面に黒い染みを作り、乾く気配もない。
これが――乱世の都の「裏の息遣い」。
書物で知っていたが、現実の匂いと音と温度を伴って迫る光景は、胃の奥を冷たく締めつけた。
さらに進むと、目に飛び込んできたのは、董卓軍の兵らしき男たち。
鎧は立派だが着崩れ、酒に酔った顔つきはだらしない。彼らは野菜を売る老婆の荷を乱暴に奪い取り、からかうように笑っていた。
「やめてくだされ! それがなければ孫が飢えてしまいます!」
老婆は震える声で叫び、兵の足に縋る。
だが兵士は酒臭い息を吐き、乱暴に彼女を突き飛ばした。
乾いた銅銭が地面を転がる音が、やけに耳に残る。
護衛兵たちは青ざめて拳を握り、しかし一歩も動かない。
相手は董卓の兵だ。
逆らえば、彼ら自身も、そして私の背後にいる王允までもが危険に晒される。
それがこの世界の掟――力なき者は、声を上げることすら許されない。
袖の中で、私は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが熱に変わる。
腹の底から、煮えたぎるような怒りが湧き上がった。
だが、まだ動く時ではない。
怒りをむき出しにするのは愚か者だ。
私は無表情を装い、その場を通り過ぎた。
この怒りは、やがてもっと効果的に――必ず、倍返しにしてやるために。




