1-10:歌姫の本当の舞
1-10:歌姫の本当の舞
もう、涙は一滴たりともこぼれなかった。
泣き尽くしたからではない。――違う。
胸の奥で、燃え盛るはずの炎が冷え、鋭く研ぎ澄まされた氷の刃となったからだ。
代わりに、腹の底から湧き上がってくるものがあった。
それは、獣が牙を研ぎ、闇の中で獲物を狙うときのような、冷たく確かな闘志。
優しさもためらいも、今はそこにない。
あるのは、勝つために必要な計算と、目的を果たすまで歩みを止めない強靭な意志だけだ。
駒として盤上に上がる――ならば、ただ糸に操られて踊るだけの存在にはならない。
私は、自ら糸を握る者になる。
盤上の全ての駒の行く末を、私が決める。
「連環の計」――上等だ。
その舞台に立たせてもらおう。
だが忘れるな。筋書きを握るのは王允、あなたではない。
――この私、貂蝉だ。
鏡の前で、私はそっと微笑んでみせた。
口角をわずかに上げる。それだけで、血色を帯びた唇は柔らかくほころび、頬は花びらのような温もりを帯びる。
瞳にはほんのりと光を宿し、わずかに潤ませる――これで、男たちの庇護欲は簡単に掻き立てられる。
次に、ゆるやかに視線を伏せた。
恥じらいを帯びたその仕草は、純粋さを信じ込ませるための最も古く、そして最も有効な手段。
そう――この微笑みは、油断を誘う。
この涙は、同情を引く。
この憂いは、心を掴み、離さない。
これから私は、この顔を、この身体を、磨き上げる。
ただ美しくではなく――誰もが無防備になってしまう、完璧な「武器」として。
王允、あなたの筋書き通りに動くふりをして、私は呂布を誘惑するだろう。
董卓を虜にするだろう。
だが、それはあなたの想像する結末とは違う。
呂布――その剛剣の如き男は、私の『剣』とする。
彼の純粋な武への情熱を、己の栄光のためではなく、民を守るための刃へと変える。
たとえ彼が今は獣のような武人であっても、その魂に眠る英雄の芽を呼び覚ますのは、この私だ。
董卓――あの怪物は、私の前に立ちはだかる最初の『障害』にすぎない。
だが同時に、彼を倒すことで私の名は天下に鳴り響く。
その破滅は、私が大義を得るための踏み台となる。
そして、王允――あなたもまた、私が大計を成し遂げるための、最初の『後ろ盾』にすぎない。
あなたの忠義も野心も、私はすべて利用する。
情に流されるつもりはない。これが、私の選んだ道だ。
私が舞う舞台は、あなたたちが描いた盤の上。
だが私の舞は、あなたたちの予想をはるかに超える。
私は、ただ国を傾けるための毒婦にはならない。
私が舞うのは――男たちを狂わせる破滅の舞ではなく、乱世を鎮め、新しい時代を切り拓く創造の舞だ。
それは、血に濡れた大地に花を咲かせ、焼け落ちた都に再び光を取り戻すための舞。
私は鏡の中の自分に、不敵な笑みを向けた。
その笑みは、絶世の美少女の顔に妖しい毒を纏わせる。見る者は皆、その魅力に抗えず、近づくほどに深みにはまり、逃れられなくなるだろう。
――これからは、この顔が、この身体が、私の剣であり盾だ。
そして、私の魂は、誰にも支配されない。
歌姫の本当の舞は、今、幕を開ける。




