12-7:聖女の「神託」
12-7:聖女の「神託」
夜明けの洛陽は、まだ薄い靄に包まれていた。市場へ向かう荷車の車輪が、湿った土をこすり、低く軋む音を立てる。その静かな朝に、奇妙なさざ波のような囁きが、街角から街角へと、忍び寄るように広がっていった。
最初は、ほんの一人二人の口から漏れた噂だった。
「おい……聞いたか? 聖女・貂蝉様が、夢枕に立つ亡霊を見られたそうだ……」
その声は、まるで禁忌に触れるように低く、しかし確かに、興奮と好奇心の火を帯びていた。
やがてその囁きは、茶屋の湯気立つ湯呑の間を渡り、酒場の湿った木卓を這い、肉や果物を売る市場の喧騒の中にも染み込んでいく。人々は買い物の手を止め、耳を寄せ合った。
「夢枕に現れたのは……あの伍孚様だ」
その名を聞いた途端、誰もが息を呑む。
伍孚――董卓の暴虐を真っ向から諫め、家族もろとも惨殺された忠臣。その悲劇は、何年経とうと民衆の胸から消えない。あの名は、血と涙と共に記憶されているのだ。
「伍孚様は……血の涙を流しながら、こう告げられたそうだ。『真の国賊は董卓ではなかった……漢室を私物化し、己の権力のために英雄を陥れる王允こそ、真の国賊である』と……!」
それは衝撃だった。
王允は董卓を討った救国の英雄――そう信じられてきた。その人物が、国賊だと?
人々の間に沈黙が落ちた。誰もが否定したい。しかし、それを告げたのが、あの聖女・貂蝉だという事実が、噂に奇妙な重みを与えていた。
嘘をつくことなど、絶対にないと信じられている女性。弱き者に膝を折り、孤児の頭を撫でるその姿を幾度も見てきた。祭壇で祈る彼女の瞳は、いつも澄んで揺るぎなく、人々を魅了してきた。そんな彼女が言うなら――それはもはや、真実なのではないか。
「まさか……」
「でも、貂蝉様がそんな戯言を仰るはずが……」
「いや、聖女は、時に我らが知らぬ真実を知るものだ……」
疑いと信じたい思いが入り交じり、人々の心は揺れた。
一方、王允の屋敷にも、その噂はすぐに届いた。
「馬鹿馬鹿しい!」王允は嘲笑を浮かべ、茶碗を卓に乱暴に置いた。
「幽霊だと? 神託だと? 民とは愚かにもほどがある。そんな根も葉もない噂、放っておけばすぐに消える」
彼は、民の心の奥底に潜む不満を知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
炊き出しは打ち切られ、慈愛院への支援も削られた。董卓がいなくなっても暮らしは少しも良くならない――民衆は薄々、それを感じ始めていた。
だが、それはまだ、くすぶる炭火に過ぎなかった。
そこに、この「神託」という燃料が投げ込まれたのだ。しかも、それを告げるのは民衆が深く信奉する聖女。
炭火は一気に炎となった。
路地裏では老婆が手を合わせ、涙ぐみながら「伍孚様……」と呟く。
井戸端では女たちが桶を置いたまま、熱心に噂の続きを求め合う。
市場では行商人が客に囁き、囁かれた者が次の客にそれを渡す――それはまるで、目に見えぬ煙が街全体を包み込むようだった。
そしてその中心には、私――貂蝉の存在がある。
だが、彼らは知らない。この噂は偶然でも神託でもなく、陳宮が精緻に張り巡らせた網だということを。
都のあらゆる場所で同時に、同じ物語を、同じ抑揚で広めさせる――人々の心に疑念と期待を植え付けるために。
王允はその力を侮った。
「民など容易く操れる」と。
だが、操られていると知ったとき、民は怒り狂う。しかも今、その怒りに聖女の言葉という刃が添えられてしまった。
――噂はもう、誰にも止められない。
それは王允の足元を、音もなく崩し始めていた。




