11-8:天に代わりて
11-8:天に代わりて
その時、広間の空気が一瞬にして張り詰めた。
扉口から現れた男の姿を認めた瞬間、董卓の重く垂れ下がった瞼がわずかに震え、安堵と歓喜が入り混じった色が浮かんだ。
「おお……奉先!」
彼の声は、まるで溺れかけた者が一筋の藁を掴んだかのように震えていた。
「よくぞ来た! やはりお前は儂の忠実な息子よ! こいつらを皆殺しにせよ! 抵抗する者は一人残らず斬り捨てい!」
声にはかつての覇者の威勢があったが、その奥底には恐怖と焦燥が透けていた。
董卓は信じていたのだ――この刹那までは。呂布は裏切らぬ、と。どれほど世間が彼を鬼と罵ろうとも、この養子だけは自分を支え、共に権勢の頂点を守ると。
しかし、呂布は返事をしなかった。
わずかに首を横に振り、その動きは、砂漠に沈む夕陽のように静かで、抗いがたい終末の気配を帯びていた。
そして――方天画戟を、ゆっくりと構える。
ぎらり、と鋼の刃が洛陽の陽光を反射し、白刃の煌めきが董卓の胸元を狙い定めた。
「……な……」
董卓の厚い唇から、くぐもった声が漏れた。
信じられない、という表情。目尻の深い皺がさらに引きつり、瞳孔が開く。
「奉先……? 何をしておる。冗談は……よせ」
「冗談では、ございません」
呂布の声は、広間の隅々まで響き渡った。深く、重く、まるで天命そのものを告げるかのような厳かさがあった。
「――漢の賊、董卓」
その呼び名に、もはや情はなかった。
かつて「父」と呼んだ男に向ける言葉は、冷たい断罪の響きだけを帯びていた。
胸の奥底から、記憶の影がせり上がる。
――あの日、己は金と権勢の甘言に溺れ、義父・丁原を自らの手で斬った。
あれは忠義でも大義でもない。ただの欲望。董卓と同じ、血に飢えた獣の行いだった。
(だからこそ、分かる。この連鎖は、俺の手で断ち切らねばならん……)
過ちを犯した者にしか分からぬ決意が、呂布の瞳を灼く。
それは裏切りではない――贖罪であり、裁きであり、そして新たな時代への誓いだった。
「――天に代わりて、誅伐する!」
叫びと同時に、赤兎馬が大地を蹴った。
炎のたてがみを揺らし、赤い稲妻のように董卓へ突き進む。
その疾駆は一瞬で間合いを詰め、風圧が広間の幕を激しくはためかせた。
董卓は、なおも信じられぬといった顔で呆然と立ち尽くしていた。
最期まで理解できなかったのだ――なぜ、この最愛の義子が、自分の命を奪いに来るのかを。
だが、その答えを知る間もなく、方天画戟の穂先が容赦なくその胸を貫いた。
鈍い音と共に、重い体が後ろへ傾ぎ、紅い飛沫が空中に散る。
広間の空気が止まった。
次の瞬間――重く閉ざされていた都全体が、息を吹き返したように震えた。
恐怖に押し潰されていた民の口から、歓喜と解放の叫びがほとばしる。
地面が揺れるほどの声の波が、城壁を越え、洛陽の空へと響き渡った。
一つの時代が、今、終わった。
血塗られた暴君の名は歴史に刻まれ、その骸は新たな秩序の礎となる。
だが、呂布はまだ、その背を真っ直ぐに伸ばし、戟を握ったまま、沈黙していた。
歓声に包まれながらも、彼の瞳には一抹の影が差していた。
――過去の罪は、これで贖えたのか。それとも、これはまた新たな血の始まりなのか。
赤兎馬の鼻息が白く吐かれ、刃先の雫が石畳に落ちる音がやけに大きく響いた。




