【29】あなただけを愛していたい(天野日向)
時計を見ると8時を過ぎている。永梨が目を覚ました時にはもう霙の姿はなかった。多分、顔を赤くして帰ったのだろう。
「···昼過ぎに会いに行こうかな」
会いに行ったら、霙は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えながら階段を下りていると、足を踏み外して倒れそうになった。
階段を下りきったあと、廊下を進めばリビングがある。リビングへの扉を開けると、近くの机に置き手紙があった。
《母さんへ みぞれさんの所へ行ってきます。学校へは『遅刻する』と説明してあります。市花たちがまだ寝ているので起こしてキッチンにある料理を食べさせてください。 日向より》
――霙の所へ行く?
霙がいる所として唯一あがるのは森の中、あの建物がある場所だ。霙が帰る時に日向に行ったのだろうか。永梨は数秒困惑したあと、置き手紙をクシャクシャにして丸めた。
「···何のために、霙ちゃんは日向に···教えたんだろう」
クシャクシャに丸めた紙を見つめていると、裏面に文字が書かれていることに気付けた。永梨は紙を広げて、裏面を読んだ。
《ごめん、やっぱ憂と淋さんと同居するのは無理。精神が持たない。》
「無理」――その言葉の意味を永梨は理解できなかった。日向なら、日向だからこそ、笑顔で受け入れてくれると思っていたからだ。
「精神が持たない···ッ!」
良く良く考えてみれば分かった。それは日向と市花の母親だからこそ知っていること。それを踏まえて考えると、自分は日向に酷いことをしたという罪悪感が湧いてきた。
***
朝早くの森の中に立つのはおかしなものだ。眠気はしないけど、だる気がする。それでも日向は歩き続けた。
日向が森の中をある程度歩くと、木々がない、周りより少しだけ広い場所に出た。すぐ近くに小さな白い建物がある。
「霙さん?いますか?」
自分の声が辺りに響くのはあまり好きではない。いくら人が少ないからといってもだ。
「···いないのかな?」
無意識に体は小さな白い建物の前まで動いていた。ここに霙がいる。気がする。
日向が扉を探そうと建物の周りを回った。ドアノブまで白色、窓もない。本当にここに霙がいるのだろうか。日向がやっと見つけたドアノブを回して建物の中に入ろうとした時、「日向さん?」と後ろから聞こえた。
「え、あっ、霙さん!?」
数時間前に見た顔つき、霙の顔に『懐かしさ』さえ感じてしまった。
「まさか早速来るとは思っていませんでした···」
霙は両手で籠を持ち、籠の中にはどこで入手したのかイチジクが入っていた。
「···どうして私に教えたんですか?それに、こんな場所···霙さんは何者なんですか?」
「私のこと呼び捨てにしてください。私は日向さんより2つ下ですから」
せっかく日向が決まる台詞を考えたのに、霙の言葉で台無しになった気分だ。日向が面食らった顔をしていると、霙が子供染みた顔で見てくる。
「···どうして私に教えたの?森の中にこんな家を建てるなんて、何がしたかったの?」
言えた。ついさっき言ったことは忘れたけれど、覚えていることと、知りたいこと、日向は霙に問いただした。
「そう···ですね。私自身、『自分』が何なか分かりません」
「え?どういうこと···?」
日向が訊ねる理由は、決して好奇心が湧いたわけじゃない。逆だ。一昨日、いきなり淋を抱いて家にきたのだ。永梨と一緒に。そして眠る日向と淋のそばに四六時中いるのだ。不信感しかない。
「説明したところで、日向さんには理解できませんよ」
霙が鼻で笑いながら言った。その言葉に日向は苛立たずにはいられなかった。
「――何が言いたいのさ?私が劣っているとでも言いたいの?『歳上』に向かって随分生意気だね!」
数歩、勢い任せで霙に近付く。勢いに負けたのか、霙が籠を落としてしまい、イチジクが辺りに散らばった。
「日向さんは市花さんが好きなのですか?」
「え、それは···」
唐突な質問に日向は答えることができなかった。
「――だから、憂さんと淋さんとの同居を拒むのですか?」
「だ、だったら何なの?」
何としてでも返さなければ、――負けてしまう。
「――そうでしたら、『市花さんのことは諦めてください』」
「···え?」
胸より少し下、肺の辺りから様々な感情が飛び出てきそうになった。それと同時に、日向は霙の頬を叩いていた。日向自身、何がしたくて叩いたのか分からない。ただ、何かに怒りをぶつけないと死んでしまいそうになった。
「何で···私の『想い』を無駄にしないといけないの!?私がどんな想いで中3から市花を見てきたと思ってるの!?市花は私の大切な『妹』で、私にとって『世界一大切な人』なの!」
日向はその場から逃げた。逃げたのだ。霙の前に立つのが怖くて逃げた。来た道をそのまま走って森から出た。
「なんで···私はただ『市花が好きなだけ』なのに。市花を好きでいたくて、市花に好きだと言われたい···だけなのに···」
日向は数年ぶりに家の外で泣いた。
今から数年前、日向が中学3年生だった頃だ。
受験勉強のストレスか、反抗期だからか今まで以上にグレていた。家族に酷く当たっていた。市花の頬を叩いたこともある。市花が涙を堪えていたのも見たことがある。
「日向、いくら怒っているからといっても関係ない市花に暴力を奮ってはいけないだろ!」
父がもっともなことを言ったところで、心の中を満たしてくれる『何か』が見つからない日向にとってはどうでも良かった。
「煩いなぁ!市花が変な目で私を見てたからだよ!父さんには関係ないじゃんか!」
――こんな会話は日常茶飯事になっていた。
その日の夜、日向は夕食を食べずに部屋に閉じ籠った。父が説得しようとしても「煩い」の一言だ。――午後10時頃、日向が部屋で勉強をしていた。特にやることがなかったからだ。すると、日向の部屋の扉が少しだけ開いた。
「···お姉ちゃん?」
市花だった。
「どうしたの?私いま忙しいのだけど」
忙しいわけがない。嘘だ。誰かと会話することが面倒だったから嘘をついてしまった。
「ご飯、食べないの?パン持ってきたけど···」
市花がおずおずした表情を向けて、右手でパンを見せる。
「今日、お姉ちゃんが私の目を『変な目』って言ったでしょ?私、お姉ちゃんが心配だっただけだから。お姉ちゃんのこと好きだから」
日向は目を丸くした。それと同時に、市花を叩いた自分を『呪いたくなった』。
市花はパンを近くの棚の上に置いて、逃げるように部屋から出ていった。――やってしまった。歳下――しかも妹に心配されたあげく叩いてしまった。日向はこの上ない罪悪感を感じてしまった。
だから決めたのだ。市花に意地悪をしない、市花に善いことをする。そして、市花だけを大好きで『いてあげよう』と。




