【26】呪詛者の夜・弐(天野永梨、河東霙)
「ごめんね、わざわざ泊まってもらって」
しんみりとした空間に、永梨とエルスが互いを警戒しながら立っていた。
「···聴きたいことは···何ですか?」
永梨は軽く呼吸をして落ち着こうとする。でも、落ち着くことは無理だ。エルスが自身の前で怯えているのだから。
「よかったら椅子に座ってね···寛ぎながら話しましょ」
言葉の途中で永梨は、永梨が毎日寝ているベッドに腰をかけた。
腰をかけて、体が自由に動かなくなったからか、エルスは戸惑いながらも永梨が奨めた椅子を見る。
「···この机に置かれた大量の手帳は何ですか?」
椅子の近くにある永梨の作業机、その上には15冊ほどの手帳が置いてあった。
「全部で17冊あるの。日向が産まれた時から毎日記してる。初めて言葉を喋った日、初めて歩いた日、何を見て喜んだか――市花のことも書いてある」
今さっき座ったばかりというのに、永梨はベッドから立ち上がり机に置かれた手帳を適当に1冊手に取った。
「まぁ、良かった思い出だけを書いてるわけじゃないけどね。最近なんて、二回目のノロイアイのことばかりだよ」
偶然手に取ったのが最近のものだった。
《7月19日 市花の右目は治らない。市花は「大丈夫だよ」と言っていた。分かっている、市花は嘘をついた。》
――涙が溢れそうだ。市花の前では悲しくても我慢していたけれど、市花の母親として、こんな事は受け入れたくない。
「···私に聴きたいことは何ですか?」
もう一度問い質したエルスは、手帳を広げる永梨の手に、温もった手を添える。
「ッ···聴きたいことは幾つかある。でも、その中でも私がいま最も知りたい事を訊くわ。エルス、『あなたは誰なの?』」
「それは、どういう?」
「あなたは誰なの?」その言葉で鳥肌が立った。永梨の言葉が理解できなかっただけじゃない、エルスが拒んでいること、それは自分が誰なのかを答えることだ。
「あなたは『エルスじゃない』んでしょ?」
黙っていると、永梨の問い掛けは更に胸を苦しめるだろう。エルスは悩んだあと、小さな口を開く。
「永梨さんがイーズランドで出会った人物、河東霙は、ケルベリタ爆発事件で死にました」
エルスの言葉に、早くも永梨は納得してしまった。
「···河東霙は死んで、還らぬものになりました」
一字一句丁寧に言っているのか、それとも涙を堪えているのか。永梨は『決定付いた結末』まで、耳を凝らした。
「それでも、河東霙は生きたいと願った。『大好きなあの人のもと』を願った」
――そう、初めから知っていた。何もかも、全て。エルスという存在は仮であること。神の代理、この言葉の時点で気付いておくべきだった。永梨は知っている、神の代理は『元人間』にしかなれない。
「――そこで『神の代理』として、この世に誕生したのが···私、エルスだった」
河東霙は死んで、エルスとして生まれ変わった。ただ1つ、普通の人間として生きる権利を奪われている。
「今の私は、河東霙なのか分からない。でも、今の私は『河東霙の生まれ変わり』···」
「やっぱり···あなたは霙ちゃんなんだ···?」
エルスが、永梨のことを「お姉ちゃん」と呼んだことがある。それは、今も尚、エルスには河東霙の生前の記憶があるのだろう。
「本来、第二回目のノロイアイの取締役である私と、『第一回目のノロイアイの勝者である天野永梨』は、出会ってはいけなかったのです」
出会ってはならない理由は明確ではない。でも、出会うことで記憶の一部が動いてしまう人間だからこそ、出会ってはならないのだと思う。
「――霙ちゃん、って言えばいいのかな···?」
「もう、名前なんてどうだっていいです。多分、私は河東霙とエルスのハーフですから」
エルスは逃げることを諦めた囚人のように、椅子に座った。それに安心し、永梨はベッドに腰を下ろす。
「じゃあ霙ちゃん。河東霙が最期に言った言葉、覚えてるよね」
ケルベリタ爆発時、永梨を救った河東霙が言い残した言葉。衝動的だった。何度もあの言葉が脳内で繰り返される。
「···はい。覚えています」
「あの時の質問、いま答えるよ」
エルスが間尺に合わないような、不安気な顔を見せながら呟いたのを確認すると、永梨は軽く息を吸った。
――ずっと好きでいさせてください。
「誰が誰を好もうと、それが『愛』ならば別になんだっていい。誰かを愛することは、その者の立派な『人生』なのだから」
――私のことを忘れないでください。
「···私は河東霙を忘れたりなんかしない。イーズランドで一緒に遊んだよね。一緒に···お風呂に入って、同じベッドで寝た···よね。河東霙と過ごした楽しかった日々を、私は忘れない」
――いつか、もう一度会える日を信じてます。
「河東霙の生まれ変わりである霙ちゃんに会えたことを、私は『再会』と言う。だって、あなたの身体には今も尚、河東霙の魂が生きているのでしょ?」
――私を、愛してください。
「ッ···」
言葉に迷った。なんと返すべきか、どの答えが正解か。永梨が苦い顔をしていると、エルスが俯いて涙を流しているように見えた。
「永梨さんは···不知火芽吹さんが好きですか?河東霙より、あなたに優しく振る舞ってくれた不知火芽吹さんを···永梨さんは大好きですか···?」
やはり泣いていた。頬を伝い、エルスの首を濡らす液体は紛れもなくエルスの涙だ。
「それは···」
なんと返すべきか分からない。嘘をつくべきか、いや、そんなことをしたところで、見破られては取り返しがつかなくなる。
――芽吹のことは好きだ。芽吹の容姿からは見てとれない優しすぎる性格が、永梨は大好きだ···った。
「不知火さんは···もう、いない。私が殺したんだ···」
永梨の目に浮かぶ涙のわけは、数えられないほど多い。失ったこと、不知火芽吹が大切だったこと、自分が殺したこと――永梨は吐き気を感じた。
「···多分、私は選択肢に立ってたんだ。不知火さんか河東霙――どちらを愛するべきかで」
エルスの唾を呑み込む音が、直々に永梨へ届いた。
「結果、呪詛者である不知火さんを殺すしかなかった。不知火さんの望んだ形でね。だから···私の『希望』はあなたしかいない。霙ちゃん···」
エルスは俯いているのに、刺激を受けたように、目を大きく開いていた。
「···本当?」
「え、うん···そうだよ」
「Leary?」
もう一度問い質してきたエルスに困惑しながらも、永梨はただ1つの『希望』を見つめた。――河東霙、別名エルス。彼女こそが永梨の『第二の希望』といえる存在だ。
「···うん。好きだよ、霙ちゃん···」
永梨はエルスに向けて、大きく横に手を広げた。こっちにおいで、と言わんばかりに、永梨は笑顔だった。
「···私も、好きです」
ふらついた足取りで、エルスが永梨の胸元に抱き付いた。
数秒も経たず、エルスは泣いた。泣いて、泣き疲れて、いつの間にか寝ていた。




