第9話 祝宴の夜〜出雲出発
その夜は、村総出での盛大な宴となった。
並べられた酒やご馳走を前に歓声と歌が響き渡る。
「英雄様!!」「もっと飲んでくれ!!」「オロチを瞬殺した武勇伝を聞かせてくれ!!」
「いや、そんな……」「まぁ……」と歯切れ悪く返すスサノオに村神たちが「すげぇ!!」と盛り上がる中、慣れない居心地の悪さはあったものの、それは決して悪くない時間だった。
誰かが笑っていて、泣いていなくて、自分を怒鳴ったり責めたりする者も誰もいない。
ただここに「いていい」という空気そのものが、スサノオの胸に少しだけ深く沁み渡っていた。
ふと見上げた空はまだ暗く、姉のアマテラスは依然として岩戸の中に引きこもったままだ。
「……姉上」
ぽつりと呟きながら、懐からオロチの尾から出た妙に綺麗な剣を取り出して見つめる。
少し考えた後、スサノオはぼそっと言葉を溢した。
「これ、姉上にやるか」
隣でその呟きを聞いていたクシナダヒメが「大切な方なんですね」と問いかけると、スサノオは動きを止めて少し考え、それからぶっきらぼうに言った。
「……うるせぇけどな。でも――」
再び暗い空を見上げる。
「嫌われたくねぇんだよ」
その声だけは少しだけ小さかった。
クシナダヒメは何も言わず、ただ少しだけ優しく笑った。
この男はこれほど強いのに少しだけ不器用で、そしてきっと――すごく寂しい方なのだと気付いたからだ。
◇
翌朝、出雲の村は朝から色めき立っていた。
「英雄様!! 姫様との婚儀を!!」
突然響いた村神の叫び声に、スサノオは飲んでいた酒を盛大に吹き出した。
「――ぶふっ!!」
「おお!」「照れてるぞ!」「若いな!」「英雄様かわいい!」
とざわめく周囲に、スサノオは酒のせいだけではない赤さの顔をしながら「誰がだ!!」と即座に突っ込んだ。
「いや待て!!」と勢いよく立ち上がる。
「何でそうなるんだよ!?」
アシナヅチがもの凄く真面目な顔で、指折り数えながら理由を並べ立てた。
「娘を救ってくださった」「うん」「命の恩人」「うん」「怪物討伐」「うん」「しかも櫛にして肌身離さず守った」
「言い方!!」
確かにそれっぽい事情ではあるため村神たちが「あと『泣くな』って言ってた!」「『死にそうな顔嫌いなんだよ』って!」「それもう完全な守る宣言じゃん!!」と一斉に囃し立てる。
勢いで口走ったセリフをことごとく掘り返され、スサノオにとってはかなりしんどい時間が続いていく。
ふと視線を感じてそちらを見ると、少し俯いて顔を赤くしながら静かに座っているクシナダヒメの姿があった。
村神たちが「姫様はどうなんです!?」「嫌では……ないですか?」と茶化すように問いかける中、なぜかスサノオまで妙に緊張しながら彼女の反応を待ってしまう。
怪物相手の戦闘よりも緊張するという意味の分からない状況下で、クシナダヒメが小さな声で言った。
「……嫌では、ないです」
一瞬で宴の場が、そしてスサノオの思考が完全に停止した。
あまりのことに理解が追いつかない彼を置いて、クシナダヒメはさらに顔を赤くしながらも、ちゃんと言葉を紡いだ。
「守って、くださいましたから。それに、あんな風に『死ぬな』って言われたの、私、初めてでした」
その言葉にスサノオは戦闘不能の完全フリーズ状態へと追い込まれる。
「おおおおお!! 成立だ!!」「婚儀だ!!」「祝い酒を追加しろ!!」
大歓声を上げる村神たちに、赤くなりすぎた顔でスサノオが必死に叫ぶ。
「早い早い早い!! 待て!! 俺、高天原を追放されたばっかだぞ!?」
「関係ない!!」
「住所不定だぞ!?」
「英雄だからOKだ!!」
「職もねぇぞ!?」
「オロチ倒しただろ!!」
全ての懸念を力技で論破され、スサノオは村社会の圧倒的な強さに白旗を上げるしかなかった。
◇
その後、宴の賑やかさから少し離れた川辺では、夜風が静かに水音を運んでいた。
そこへ退避したスサノオは、ひとり頭を抱えて唸る。
「……急すぎんだろ」
追放、地上、怪物、討伐、英雄、そして婚約(仮)――今日一日だけで押し寄せてきた情報量が多すぎて、完全に処理能力を超えていた。
「……隣、いいですか?」
振り返ると、そこにいたのはクシナダヒメだった。
静かな声ではあったが少しだけ距離が近く、スサノオは妙に落ち着かない。
「……おう」
そこから再び沈黙が流れ、ただ川の音だけが響く少し気まずい空間になる。
戦闘なら得意だがこういう空気だけはとことん苦手な彼へ、クシナダヒメがぽつりと小さく打ち明けた。
「本当は……怖かったです。もう、死ぬと思ってました」
少しだけ間を空けて静かに語る。
「でも、来てくれた」
クシナダヒメがふっと微笑むが、褒められるのも感謝されるのも苦手なスサノオは、もの凄く困って頭を掻きながら目を逸らした。
「……まぁ、困ってそうだったしな」
相変わらず雑な返しだったが、それが少し彼女にとってはスサノオらしく思えて、クシナダヒメは「変な方ですね」と楽しそうに笑った。
「よく言われるわ」
即答したことで二人の間に小さな笑いがこぼれ、優しい風が吹き抜けていく。
そして、クシナダヒメが少し視線を落として呟いた。
「……どこかへ、行ってしまうんですか?」
スサノオは暗いままの空へと視線を向けた。
姉のアマテラス、高天原、そしてもう帰れない場所――少しの間を置いてから漏らしたのは、彼にしては珍しい本音だった。
「……分かんねぇ」
それでも懐にある剣へと目を落とす。
姉へ渡したいと願った、あのオロチの尾から現れた神剣だ。
「でも、やることがあるんだよ」
クシナダヒメは少し黙り込んだが、やがて静かに、少しだけ勇気を出した声で問いかけた。
「なら……帰ってくる場所、作りますか?」
その意味にスサノオの動きが止まる。
分からないふりをしたいほどに、恋愛耐性ゼロの荒神スサノオにとっては完全な停止案件だった。
怪物が相手なら雷の速度で即座に反応できるというのに、この状況だけは処理が追いつかない。
「……え?」
時間を稼ぐためにもう一回聞き返すと、クシナダヒメは顔を真っ青ならぬ真っ赤にしながらも、ぎゅっと指を握りしめて逃げずに言葉を紡いだ。
「その……帰る場所がないって、言ってたので。だから、あった方がいいかなって……」
それはスサノオにとって完全な致命傷だった。
高天原ではただ怒られ、止められ、迷惑がられ、姉には説教されて父にはため息をつかれ、神々には遠巻きに距離を置かれていた。
だというのに目の前の少女は、まるで当然のように「帰ってくる場所」という言葉をくれたのだ。
そんなことを言われた経験など、記憶のどこを探してもおそらく一度もなかった。
だからこそ本当に少しだけ、胸の奥が変なふうにきゅっと痛んだ。
「……変なこと言うなよ」
ぶっきらぼうに返したものの、その声は自分でも驚くほど少しだけ弱かった。
クシナダヒメが「あ……嫌、でしたか……?」と不安そうに顔を曇らせる。
「違う!!」
あまりに早すぎる即答だった。
沈黙が流れる中、スサノオはきまずそうに視線を泳がせる。
「……そういうの、慣れてねぇんだわ」
ぼそっと溢した彼に、クシナダヒメは少しだけ目を丸くした後、優しく小さく笑った。
「……知ってます」
「なんでだよ」
「顔に、全部出てますから」
ぐさっとかなり鋭く突っ込まれ、荒神は地上に降りて初めての完全敗北を喫した気がした。
しばらくの間、二人の間を静かな夜風と川の音だけが満たしていた。
やがてスサノオが、暗いままの空を見上げながらぽつりと呟いた。
「……でも、先にやることがあるんだよ」
そう言って懐から取り出したのは、オロチの尾から現れたあの神剣だった。
月明かりすら届かない暗闇だというのに、その刃は妙に清らかな光を放っており、ただの武器ではない圧倒的な風格を漂わせている。
「これを、姉上に渡すんだ」
クシナダヒメが「大事な方なんですね」と静かに問いかけると、スサノオは「ふん」と鼻を鳴らした。
「説教がうるさいし、すぐ怒るし、俺のことなんていっつも信用しねぇんだわ」
そこで数秒ほどの沈黙を置き、彼は少しだけ声を小さくした。
「……でも、嫌われたまま放り出されるのは、やっぱり嫌なんだよ」
それは生まれて初めて口にした、彼の本当の心の声だった。
姉に認められたかった、嫌われたくなかった――ただそれだけの純粋な願いだったからこそ、今までは余計に空回って大事故を引き起こしていたのだ。
クシナダヒメはそれ以上何も言わず、ただ少しだけ彼の近くに寄り添うように座り直した。
「なら、行ってきてください」
静かな声にスサノオが視線を向けると、クシナダヒメは少しだけ悪戯っぽく微笑んでみせた。
そこにはもう全てを諦めた悲壮感などなく、しっかりと前を見つめる未来の顔があり、「……待ってますから」と、慈しむような言葉が重なった。
胸を鋭く射抜くその言葉に、スサノオはかなりの致命傷を受けながら慌てて顔を逸らした。
「……分かったよ」
相変わらずぶっきらぼうな口調だったが、その耳の端は少しだけ赤く染まっている。
「ちゃんと帰るわ」
短く返したその一言は、荒神が地上で初めて交わした、確かな約束だった。
◇
翌朝――出雲の村は、総出でスサノオの見送りに集まっていた。
「英雄様ーー!!」「またいつでも来てくれよ!!」「新しい酒を仕込んでおくぞ!!」「姫様が泣いてるぞー!!」
「泣いてないわよ!」と顔を真っ赤にして言い返すクシナダヒメの横で、スサノオはどこか落ち着かない様子で頭を掻いていた。
やがて、彼は高天原へと続く天の道を見据え、深く息を吐き出す。
「……姉上。今度は絶対に怒られない、とっておきの土産を持ってきたぞ」
オロチの尾から出た神剣を肩に担ぎ直すと、スサノオは不敵な笑みを浮かべた。
追放されたはずの荒神は、こうしてもう一度天へと向かって駆け上がっていく。
ただし今度は、ほんの少しだけ「帰る場所」を知った、どこか誇らしげな顔をして。




