第10話 高天原帰還〜神議(かみはかり)
高天原へ向かう天の道は、思ったよりも少しだけ足取りが軽かった。
風を切り雲を突き抜けていく中、空がどんどん近づいてくる。
懐にはあの神剣が収まっており、そしてスサノオの頭には「……待ってますから」という静かな声が妙に残り続けていた。
「……変なこと言うやつだ」
スサノオは小さく顔をしかめたが、その気分は決して悪くはなかった。
むしろ、かなり悪くない。
ほんの少しだけ、あそこへ帰りたいと思ってしまったくらいには。
「……帰る場所、か」
ぽつりと呟いたその単語は、今の自分にとってはひどく奇妙な響きを持っていた。
高天原を追放されたばかりだというのに、地上にはもう別の居場所ができていたのだ。
しかも待っているとまで言われた、俺みたいな問題児を。
本当に意味が分からなかった。
やがて高天原の全景が見えてきたが、どうにも様子がおかしかった。
あまりにも静かすぎる上に暗く、漂う空気は重苦しく沈み込んでいる。
「……まだなのか」
スサノオの眉がピクリと動き、嫌な予感に胸がざわつき始める。
一気に速度を上げて中央広場へと降り立つと、その瞬間に神々の動きがぴたりと止まった。
神々が一斉にこちらへと振り返り、もの凄い沈黙が広場を支配する。
「……帰ってきたぞ」「追放されたはずなのに?」「何しに来たんだよ」「少しは空気を読めよ……」
そんなひそひそ声が耳に届き、スサノオは少しだけ胸を痛めた。
いや、彼らの言い分は分かる、分かるのだが、それでもちょっとは傷つく。
「……なんだよ」
スサノオはきまずさを隠すようにぶっきらぼうに言い放った。
「別に喧嘩を売りに来たわけじゃねぇんだわ」
そう言って懐からオロチの尾より現れたあの剣を取り出すと、凄まじい神気が周囲を走り、場の空気が一瞬で跳ね上がった。
神々がにわかにざわつき始める。
「……何だそれは」
「地上で怪物退治をしてきたんだよ。八つの頭を持つ巨大な化け蛇をな、俺が倒したんだ」
スサノオが少しだけ得意げに胸を張ったものの、高天原の神々は理解が追いつかずに思考を停止させていた。
追放されてまだ数日の、地上へ落ちたはずの問題児が、帰ってきたと思ったら怪物を討伐したと言うのだ。
「……嘘だろ」
農耕神が引き気味に呟く。
「また話を盛ってるんじゃないか?」
海神も深くうなずいており、過去の実績が悪すぎていっさい信用がない。
「盛ってねぇわ!!」
少しムキになったスサノオは、声を荒らげて続けた。
「姉上に土産を持ってきたんだよ!」
その瞬間、周囲の空気が少しだけ変化した。
あのスサノオが、姉に土産を持参して、しかもそれはどう見ても「謝る」ことを前提にしている。
これは神々にとってかなり珍しい事態だった。
「……姉上はどこだ?」
スサノオが周囲を見回したものの、アマテラスの清廉な気配はどこにも感じられない。
あまりの静かさに嫌な予感が増していく。
「……まだ、岩戸から出てねぇのか?」
その問いに神々の顔が曇ったが、誰も答える者はいない。
代わりに、後ろからどすの利いた低い声が響いた。
「まだだ」
振り返ると、そこにはだいぶ疲れ切って眠れていない顔をしたイザナギが立っていた。
父と息子、対峙する二人の間に少しだけ気まずい沈黙が流れる。
「……父上」
イザナギはスサノオの持つ神剣に目を留め、少しだけその瞳を細めた。
「地上へ降りて早々、また暴れてきたというわけか」
「……助けたんだ」
短く、ぶっきらぼうに返す。
「怪物も、ちゃんと倒した」
イザナギは数秒ほど黙り込んだが、息子の目が嘘を言っていないことを見抜いた。
これほど素直な表情は、今までの彼には珍しいものだった。
「そうか」
短く返されたその一言は、それでも以前よりは少しだけ柔らかさを孕んでいた。
スサノオが小さく安堵の息を吐き出したその時、広場の奥から厳かな声が響き渡った。
「始まります」
静かだがよく通るその言葉に皆が振り返ると、そこには落ち着いた目を向けた一柱の神が佇んでいた。
騒がしい高天原の中で妙に冷静さを保っているその神こそ、知恵を司る思金神だった。
「これより、神議を開きます」
その一言で空気が一変し、神々の顔が世界の危機を前にして一段引き締まる。
高天原ではまだ短い時間でも、地上ではすでに季節の乱れが始まっている。作物は育たず、海は不穏に荒れ、人々の不安も限界へ近づいていた。
このまま長引けば、本当に世界が危うい。
世界が光を失ってから、もう猶予は残されていないのだ。
スサノオが小声で近くの神に尋ねる。
「……何をしてるんだ?」
農耕神がぼそりと、しかし冷ややかに告げた。
「お前の後始末だよ」
その言葉はスサノオの心へぐさりと突き刺さったが、農耕神は少しの間を置いてから彼をまっすぐ見つめた。
「……だけど、帰ってきたっていうなら、今度はもうぶち壊すなよ」
珍しく責めるだけではない、少しだけの期待が混ざったその静かな声に、スサノオはしばらく黙り込んだ。
そして、ぽつりと応じる。
「……分かってるよ」
本当に、珍しく素直な返事だった。




