第11話 天岩戸開き
天安河原には、光を失った世界を取り戻すために八百万の神々が集まっていた。
冷え切った空気の中、その最後方でスサノオは珍しく黙って座っていた。
何もしない、何もぶち壊さない——ただそれだけのことで、周囲の神々が少し驚いたように視線を交わすほどだった。
しかし神々は止まるわけにはいかなかった、ここで立ち止まれば本当に世界が終わってしまうからだ。
知恵を司るオモイカネが一歩前へ出る。
彼は滅多に声を荒らげない静かな神だったが、感情に流されず常に冷徹な最適解を導き出すため、誰もが自然と耳を傾ける高天原では貴重な知性派だった。
「状況を整理します。アマテラス様は天の岩戸にお隠れになった」
オモイカネの静かな声が響く。
「高天原と地上では時の流れに差があります。こちらでは短い間でも、地上ではすでに異変が広がり始めています」
「今はまだ作物の不作や寒気程度ですが、長引けば命に関わる」
「つまり——残された時間は少ない」
オモイカネの静かな言葉に伴い、神々の視線が一斉にすっと横へ動いた。
「見るなよ」
「お前だろ」
「知ってるわ!!」
これで本日三回目、さすがに少し傷つくが今回の件に関しては一ミリも否定できなかった。
オモイカネは淡々と先を続ける。
「この問題は力づくでは解決できません」
その言葉に、岩を持ち上げるなど造作もない怪力の神、天手力男神が「無理に抉じ開けたところで、本人が出てこねぇなら意味がねぇからな」と腕を組んでうなずいた。
全くの正論だった。
「必要なのは——『本人が出てきたくなる理由』です。外で何が起きているのか、どうしても気になってしまうような状況をこちらで作り出す。つまり、祭りです」
ざわっ、と空気が動き、神々が顔を見合わせる中、スサノオは少しだけ顔を上げた。
祭り——昔、姉もそれを心から楽しんでよく笑っていた。
その古い記憶が、今のスサノオの胸に少しだけ切なく突き刺さる。
オモイカネが迷いなく指示を飛ばしていく。
「鍛冶神は鏡を。玉祖命は勾玉を。そして常世の長鳴鳥を集めてください」
すぐさま鳥の神々が飛び立ち、それぞれの神が迅速に動き出す。
こういう時の高天原は妙にチーム戦が強く、動きが早かった。
誰も暴れず、誰も怒鳴らず、全員が世界の危機を前にして考えて動いている。
その光景を少し離れて見ていたスサノオは、なんだか妙な居心地の悪さを覚え、珍しく「……俺は、何をやればいいんだ」とぽつりと言葉を溢した。
農耕神も海神も動きを止め、あのスサノオが協力を申し出たという事実に高天原が一瞬ざわつく。
「……何も壊さないことです」
しかしオモイカネの即答はそれだった。
「お前ら、いくら何でも信用がなさすぎだろ」
「実績です」
本日四回目、やはり過去の行いが悪すぎた。
◇
その時、河原の向こうから「おもしろそうじゃん!!」とひときわ大きな笑い声が響き渡り、神々が一斉に振り返った。
一番テンションの高い芸能の神、天宇受賣命がやってきたのだ。
彼女は場の空気を良くも悪くもぶち壊して盛り上げる、お祭り騒ぎの天才だった。
「暗い暗い!!」
アメノウズメが勢いよく手を叩く。
「そんなお通夜みたいな顔じゃ、姉さまも絶対に出てこないって!」
今のどん底の高天原には、彼女のうるさいほどの明るさと元気が何より必要だった。
ウズメは腕を組んでにやっと笑う。
「で? 私は何をすればいいの?」
「あなたには、盛大に騒いでもらいます」
オモイカネが静かに答えると、ウズメの口元がにやぁっと歪んだ。
その笑みに神々全員の間にもの凄く嫌な予感がよぎる。
「……ちなみに、どのくらい?」
「アマテラス様が『一体外で何事が起きているの!?』と、引きこもっているのが馬鹿馬鹿しくなるくらいです」
満点と言えるほどの凶悪な笑顔を浮かべたウズメが「任せろ」と胸を張るが、その笑顔だけで神々の不安はむしろ跳ね上がっていた。
スサノオが「……あいつ、本当に大丈夫か?」と小声で尋ねると、農耕神は少しの間を置いてから「たぶん大丈夫だ。別の意味で色々と心配だがな」と遠い目をした。
やがて天の岩戸の前には入念に作られた鏡が据えられ、美しい勾玉が飾られた。
怪力のタヂカラオが岩陰へと息を潜めて待機する中、ついに中央へとウズメが進み出る。
にやっと笑って景気よく袖をまくり上げた彼女の顔は、完全に祭りの神のものだった。
「さぁ——神々の宴を始めようか!!」
スサノオが少しだけ岩戸を見つめ、ぽつりと小さな声を溢した。
「……姉上。いい加減に出てこいよ」
その声だけは、いつもの荒神ではなく、ただの不器用な弟のものだった。
岩戸の前の冷たい空気と閉ざされた世界に向かって、アメノウズメがどんっと中央に立って手を叩いた。
パン!!と鋭い音が響き渡る。
「よし、全員暗い顔は禁止!!」
神々が圧倒されて動きを止める中、ウズメは岩戸をびしっと指差した。
「世界が終わりそうなのは分かるけどさ! 中の姉さまは、絶対に私たちの何倍も責任を感じて落ち込んでるでしょ!!」
その言葉に、誰も反論できなかった。
アマテラスは責任感が強く優しいからこそ、深く傷ついた時ほど心を閉ざして立てこもってしまう、そういう神だった。
「なら!」
ウズメが太陽のように眩しく笑う。
「せめて外にいる私たちくらいは、あほみたいに明るくしてなきゃダメじゃん!」
その言葉とともに凍りついていた空気が少しだけ動き、スサノオはもう一度、静かに顔を上げた。
「まず酒よ!!」
その一言に神々がにわかにざわつき始める。
「また酒か!?」「今度はスサノオの案件じゃねぇだろうな!?」
「違うわよ!!」
ウズメが豪快に笑い飛ばす。
「お祭り騒ぎに酒は必須でしょ! 太鼓を持ってきて! 火を灯して! 歌えるやつは前に出なさい!」
その勢いに押されるようにして神々が少しずつ動き出すと、暗い世界へ次々に火が灯り、小気味よい音が鳴り響き始めた。
まだ光なき闇の中、それでも確かに空気が変わりつつある。
そんな中、中央に置かれた巨大な桶の上にウズメがひらりと飛び乗り、それを見たスサノオの胸に少しだけ嫌な予感がよぎった。
「……あいつ、何をする気だ?」
農耕神がぼそりと「始まるな……」と呟いた。
◇
ウズメが不敵に笑う。
「さぁ!!」
両手を思いきり広げた。
「高天原最大の宴を始めるわよ!!」
どよめく神々を前にして、彼女は一気に踊り始めた。
それは激しく、自由で、どこまでも豪快なステップだった。
神聖な神楽というよりはだいぶ勢い任せの踊りだったが、ウズメのテンションはどんどん跳ね上がっていく。
笑い、歌い、激しく跳びはねるたびに桶がガタガタと揺れ、見守る神々は完全に困惑していた。
「おい、これ本当に方向性合ってるのか!?」
「知らん!!でも、めちゃくちゃ楽しそうだぞ!!」
その時だった、ウズメが急に「もっと笑えーー!!」と叫ぶなり、ド派手に思いきりひっくり返った。
盛大すぎる転び方に、張り詰めていた場の一角から「ぶっ!!」と誰かが吹き出す声が漏れる。
次の瞬間、堰を切ったように神々の間に笑いが広がっていった。
「あははは!!何やってんだあいつ!」「危なっかしいな!!」「おいおい、桶から落ちるぞ!!」
ウズメ本人も大笑いしながら「いいじゃん、いいじゃん!!」と立ち上がり、またしても変顔を交えながらふざけた調子で歌い踊る。
どん底だった高天原が少しずつ、だけど確実に笑いに包まれていき、その明るい声は暗い世界に妙に心地よく響き渡った。
岩戸の少し離れた場所から、スサノオはその光景を黙って見つめていた。
頭をよぎるのは、古い記憶だ。
あの頃の姉は笑うのが本当に好きで、祭りの日にはいつも誰よりも楽しそうに笑っていた。
なのに最近の姉は、自分のせいでずっと疲れ切った顔ばかりしていたのだ。
「……姉上、笑えよ」
小さく呟いた、その時だった。
——ぴく。
わずかに岩戸が動いた。
神々の動きが止まり、しんと静寂が訪れる。
岩の隙間から、少しだけ不機嫌そうな声が漏れ聞こえてきた。
「……外で、一体何を騒いでいるの?」
ついに来た、全員の顔色が一気に変わる中、ウズメがにやりと笑って大声を張り上げた。
「姉さま!!大変よ、あなたよりずっと凄くて眩しい神様が現れたの!!」
岩戸の向こうで沈黙が流れる。
「……私より、眩しい神?」
ほんの少しだけ、岩戸がさらに開いた。
細い隙間からのぞく瞳にはまだ光がなく、ひどく疲れ切ってはいるものの、外の様子がどうしても気になっている顔だった。
その瞬間、入念に磨き上げられた神鏡を持つ神が、足音を殺してそっと前へ進み出て、岩戸の正面へと静かに鏡を向けた。
隙間から外を見たアマテラスが動きを止める。
そこに映っていたのは、少しやつれてはいるものの、誰よりも眩しく輝く神——自分自身の姿だった。
その瞳にわずかずつ光が戻っていくのを目の当たりにしながら、誰かがぽつりと静かに言った。
「……やっぱり、最初に世界を照らすのは太陽だったな」
スサノオが、小さく息を止めて見つめる。
「……姉上」
その瞬間、岩陰に潜んでいたタヂカラオが静かに腰を落として身構えた。
ここからが、本当の勝負だった。
誰も声を出せないほどの緊張感の中、岩戸の隙間から覗く太陽神の瞳は、警戒しつつも外の様子にすっかり釘付けになっていた。
「……私より、すごくて眩しい神?」
アマテラスがわずかに眉をひそめて首を傾げると、さらに岩戸の隙間が広がる。
神々が息を止める中、アメノウズメが満面の笑みを浮かべてびしっと背後を指さした。
「そうよ!!めちゃくちゃ眩しい神様!!」
アマテラスの視線が、誘導されるようにして鏡へと向けられた。
そこに映る自分の姿を見た瞬間、彼女は「……え?」と声を漏らして硬直した。
少しやつれて疲れてはいるけれど、確かに光を宿している神。
そして、その鏡の中の自分が、外の賑やかさに釣られてほんの少しだけ微笑みかけていることに気づく。
「……これは、私……?」
彼女が完全に油断した、まさにその瞬間だった。
——ガシッ!!
タヂカラオの巨大な手が、一切の躊躇なく岩戸の端を鷲掴みにした。
「今だ」
短い呟きとともに、ドォォォン!!と凄まじい音を立てて巨岩が強引に動かされ、世界が大きく揺れ動く。
アマテラスが驚愕に目を見開いた。
「え!?」
引き開く、さらに強引にその怪力で押し開いていく。
そこには理屈など一切ない、圧倒的なまでのパワーだった。
「待っ——」
声を上げるのも完全に遅すぎた。
次の瞬間、天の岩戸が全開になった。
爆発するかのような強烈な光が、一気に世界へと広がっていく。
山へ、海へ、田畑へ、そして空の果てまで、すべてが瞬く間に鮮やかな色を取り戻していった。
高天原じゅうに割れんばかりの歓声が沸き起こる。
「戻った!!」「太陽だ!!」「暖かいぞ!!」
農耕神が涙を流し、海神が泣き崩れ、鳥たちが一斉に祝福の声を上げる中で世界が完全に蘇っていく。
だが、その中心に取り残されたアマテラスだけが、少し呆然とした様子で立ち尽くしていた。
「……みんなして、私を騙したの?」
ウズメがいたずらっぽく笑う。
「騙したんじゃなくて、救ったのよ!」
「言い方でしょ、それは!!」
そのやり取りに神々が一斉にドッと沸いた。
高天原に本物の笑い声が戻ってきたのは、本当に久しぶりのことだった。




