第7話 オロチ討伐
ズズン。
地鳴りとともに、八つの頭を持つ怪物、ヤマタノオロチが姿を現した。
山の向こうからまずひとつ、巨大な頭が見え、次にふたつ、みっつと次々に頭がせり出してくる。想像の数倍を遥かに超えてでかく、まるで山そのものが意志を持って動いているかのようだった。
八つの首に八つの赤い目、長すぎる胴体に、周囲の木々を容赦なくなぎ倒していく八つの尾。吐き出す息は不快なほど酒臭く、鱗は濡れた岩のように黒く光っているが、何より獲物をねめつけるその目だけが、神を食い慣れた怪物のそれでひどく不気味だった。
オロチはまず、そこに用意された生贄と、八つの門に並ぶ「八塩折之酒」を確認した。
少し離れた場所から、真っ赤な瞳の一つでその生贄を凝視する。
(……今年の生贄は、妙に背が高いな? だが、これほど離れた場所から見ても分かる……あの顔立ちは、天界で見たどの高慢な女神よりも美しい……)
酒の香りに意識が奪われているオロチはただ、その「圧倒的な美貌」に完全に目を奪われていた。
そこへ、生贄の「女神」がゆっくりと顔を上げ、艶やかに唇を動かした。
(——どうぞ)
澄んだ、鈴を転がすようなクシナダヒメの声が、スサノオの口元から完璧なタイミングで響き渡る。
(……なんと、声まで美しい。最高のご馳走だ……!)
オロチは完全に心酔し、目の前のご馳走に耐えかねたように、八つの首を一斉に酒樽へと突っ込んだ。
ゴクゴク、ゴクゴク……!
もの凄い勢いで、濁流のごとく八塩折之酒を飲み干していく。あまりの強烈なアルコールに、やがてオロチの巨大な首がぐらりと大きく揺れ動いた。
ズシン……!
最後の一滴まで飲み干したオロチは、そのまま抵抗できずに重い地響きを立てて地に伏し、うとうとと眠りへと落ちていった。
完全に油断しきった怪物の姿を見届け、スサノオが不敵に笑う。
「——さぁ」
可憐な生贄のフリをしていた「彼女」が、地を這うような野太い声とともに立ち上がった。特注の衣を力任せに脱ぎ捨て、現れたのは筋肉の鎧をまとった最強の荒神・スサノオだった。
「なっ……貴様、女では——」
「バカめ。俺とクシナダの共同作業だ!」
スサノオは髪の櫛に一度触れると、黒い神剣を一気に抜き放った。
「さぁ——狩りの時間だ!!」
◇
怪物すら一撃で潰す神酒、八度仕込みの「八塩折之酒」をあれだけ貪れば、いくら大質量を誇る怪物だろうが効かない方がおかしい。
「よし、完全に寝たな」
剣を構え直したスサノオの確認は相変わらず雑そのものだったが、目の前のオロチが完全に油断しきった巨大な酔っ払いと化しているのは間違いのない事実だった。
荒い息を吐き散らし、足元をふらつかせる絶好の機会に、スサノオは低く、どこか楽しげな声を漏らす。
「悪く思うなよ。俺、娘を食うような趣味の悪いやつは嫌いなんだわ」
そして——ドン!!と大地を爆裂させて地を蹴った。
村神たちの目では到底追いきれない、風の爪痕だけを残す圧倒的な速度。
次の瞬間、ザン——!!と凄まじい斬撃音とともに最初の首が宙を舞い、遅れてズン、と重苦しい音を立てて地面に激突した。
あまりの早さと容赦のない強さに、静まり返った村の誰かが「……え?」と声を漏らす。
その直後、ようやく事態を察したオロチが怒り狂って咆哮し、山を激しく震わせたが、もう全てが遅すぎた。
「これで一つ!」
スサノオが笑うのと同時に、二本目、三本目、四本目の首が瞬く間に切り落とされていく。
きらめく剣閃と激しい雷、そして吹き荒れる暴風は完全に空を裂いており、もはやこれは怪物退治などという生易しいものではなく、災害と災害が正面から衝突する神話そのものの戦いだった。
「ギャアアアアア!!」
のたうち回るオロチの尾が山を砕き、周囲の木々を跡形もなく吹き飛ばしていく。
だが、スサノオの猛攻は微塵も止まらない。それどころか、何も考えずに全力を振るえる戦場を前にして、彼の表情には久しぶりの楽しそうな色が浮かんでいた。
高天原ではただ怒られ、止められ、迷惑扱いされて居場所を失っていたというのに、ここでは誰かを守るためにこの絶大な力を使うことができる。その事実が、スサノオにとっては妙に心地よかった。
「ほらどうした! さっきまでの勢いはどこへ行った!?」
完全に戦闘狂の顔になったスサノオがさらに五本目、六本目、七本目と首を軽々と断ち切っていく。
そして——最後に残った、ひときわ巨大なオロチの主首が牙を剥いた。
酒臭い息と生臭い血の匂いを振り撒き、真っ赤な瞳でスサノオを睨みつけてくるが、荒神はただ不敵に笑うだけだった。
「終わりだ」
一閃。
放たれた刃とともに巨大な雷が落ちて世界が真っ白に光り、次の瞬間、ザン!!と最後の首が音を立てて地面へと転がり落ちた。
しん、と静まり返る戦場に、巨大な怪物の死骸が土煙を上げながら音を立てて崩れ落ち、大地を大きく揺らす。
誰も動けず、ただ呆然と立ち尽くす村神たちの中から、おそるおそる声が漏れた。
「……勝った?」「勝ったのか……?」「え、本当に勝ったの!?」
次の瞬間、堰を切ったように凄まじい歓声が沸き起こった。
泣き叫ぶ者、その場に崩れ落ちる者、老夫婦もまた互いを抱きしめ合って涙を流している。
七年もの間、この地を支配していた終わらない絶望と恐怖が、たったひとりの男の手によって完全に終わったのだ。
その時だった。
「……ん?」
ふと足を止めたスサノオの視線の先で、切り落としたオロチの尾がほのかに光を放っていた。
不思議に思って剣を突き立ててみると、珍しくガキィンと不快な金属音が響き、スサノオの剣が途中で止まってしまう。
「硬っ。なんだこれ」
少しだけ眉を上げたスサノオがもう一度力を込め、ザン!!と勢いよく尾を裂き開いた。
すると、溢れ出た眩い光とともに、中から一本の美しい剣が姿を現した。
それはただの武器などではなく、確かな神気と古き風の力をまとった、異様な気配を放つ神剣だった。
スサノオはその剣を持ち上げ、少しだけ目を細めながらにやっと笑う。
「……へぇ。いいもん入ってんじゃねぇか」
彼の黒髪に差された櫛の中で、クシナダヒメは小さく息を呑んでいた。




