第3話 やらかし連発〜天岩戸ごもり
数日後の高天原西区画——そこは農耕神たちの田畑が広がる場所だった。
「おおおおおお!!」
突如として空から何かが降ってきたかと思うと、ドゴォン!!と凄まじい音を立てて地面が揺れた。神々が悲鳴を上げる中で土煙が舞い、稲が飛び散って畑がえぐれてしまう。
「……今の、何?」
農耕神が震える声で呟いたその時、土煙の中から聞き覚えしかない声が響く。
「悪い!!」
嫌な予感しかしない煙が晴れると、そこにいたのは満面の笑みを浮かべたスサノオだった。
「新技を試してた!」
あまりの言い草に全員が固まる中、農耕神が震えながら「……どこで?」と問いかける。スサノオはそこで初めて周囲を見渡し、沈黙の後に「あ」と気づいた。
あまりにも遅すぎる。
「……壊した?」
「けっこう」
「全部?」
「ほぼ」
スサノオは数秒ほど黙り込んだが、すぐに「直るだろ!」と開き直った。
「直らないんですよ!!」
食糧問題を一瞬で引き起こされ、農耕神は切実に泣き崩れた。
数日後——「スサノオ様が祭殿を破壊しました!」
翌日———「スサノオ様が海流をいじって船が転覆しました!」
翌々日——「スサノオ様が泣きながら嵐を起こしました!」
「なんで泣いてたの!?」
「母上を思い出したそうです!」
「情緒が不安定すぎる!!」
そして——アマテラスはついに限界を迎えていた。
太陽宮の机の上に積まれた被害一覧の報告書。壊れた田畑、荒れた海、吹き飛んだ神殿の数々。
神の身でありながら胃の痛みに襲われ、アマテラスは「……どうして」とぽつりと言った。
「どうして反省期間で状況が悪化するの……」
侍女神が「元気になられたからでは……」と小声で宥めるが、アマテラスは「元気になる方向がおかしいのよ」と切り返す。
その時、扉が勢いよく開いた。
「姉上!!」
来た、元凶だ、しかも笑顔である。
またしても嫌な予感しかしない中、スサノオはこれみよがしに胸を張った。
「見てくれ! 今日、馬を拾った!」
アマテラスの動きが止まる。
「……拾った?」
「うん!」
彼の後ろを見ると、明らかに誰かのものと思われる白い馬が激しく暴れていた。
「それ、どこで?」
アマテラスが静かに、そして冷ややかに聞く。
「たぶん誰かの馬屋」
「盗んでる!!」
「違う! 保護!」
「どこをどう見たらそうなるの!?」
太陽宮に姉の叫びが響き渡る中、スサノオは不満そうに「暴れてたぞ?」と口を尖らせた。
「暴れるでしょうよ、知らない神にいきなり連れてこられたら!」
「だから保護!」
「言い方を変えてもダメ!」
肝心の馬は元気に暴れ回っており、侍女神たちが必死に逃げ惑う現場はまさに混沌そのものだった。
神話的な大事故というのは、たいてい本人に悪気なんてなく始まるものらしい。今回もまったく同じだった。
その混沌の中心で、スサノオがふいに少し寂しそうな顔をした。
「……姉上、最近ずっと怒ってる」
ぴたり、と空気が止まり、アマテラスが言葉を失う。
責めているわけでも怒っているわけでもなく、本気で理由が分かっていないその表情は、ただ少しだけ寂しそうだった。
「俺、そんな悪いことしてるか?」
その問いに神々は沈黙したが、それは返答に困ったからだった。
悪いことはしている、かなりしている。ただし悪意があるかと言われると絶妙になく、むしろ本人なりに「良かれと思って」動いている節があるからこそ、余計に困る。
アマテラスは額を押さえながら、少しだけ胸を痛めた。
昔はこうじゃなかった。泣き虫で不器用ですぐ感情的になるけれど、もっと笑う、こんなに荒れてはいない弟だったのだ——母がいなくなるまでは。
だからこそ強く怒りきれない。かといって許せば被害が増えていく。統治者として、あるいは姉として、どちらを選ぶべきかずっと分からなかった。
「……スサノオ、少し休みなさい」
「休んでる!」
「そういう意味じゃないの」
「じゃあ何だよ」
責めたくはないけれど止めなければならない——その矛盾の中でアマテラスが言葉を探していると、スサノオがふいに少し無理をした笑顔を浮かべた。
「分かってるよ。俺、邪魔なんだろ?」
その妙に軽い声に場が静まり返り、アマテラスの瞳が動揺に揺れる。
違う、そうじゃないと言葉にする前に、スサノオはいつもの勢いだけの顔で笑った。
「だから結果出す。姉上が困らないくらい、すげぇことやる」
全員がもの凄く一致した嫌な予感を覚える中、アマテラスが低い声で「……何する気?」と聞くと、スサノオは少し考えてからにやっと笑った。
「祭りでもするか」
◇
翌日、高天原の機織り殿では、アマテラスに仕える女神たちが静かに布を織っていた。
そこへ——ドォン!!と凄まじい音を立てて天井が破れ、悲鳴が上がる。
空からどさりと何かが転がり落ちてきたが、それはなんと皮を剥がれた白い馬だった。
誰もが理解できずに完全停止する中、数秒後、上から聞き覚えしかない元気な声が聞こえてくる。
「姉上ーー!! 祭りだぞーー!!」
全員が凍りつき、侍女神が「……祭り?」と震える中、上からはさらに「驚かせた方が盛り上がると思って!!」と声が追撃してきた。
驚いた、たしかに驚いたが、方向性がまるっきり間違っていた。
遠く離れた太陽宮では、アマテラスが静かに、もの凄く静かにゆっくりと立ち上がっていた。それこそが一番怖かった。
「……あの馬、皮……剥いだの?」
誰も返事などできない中、侍女神が震えながらうなずく。長い沈黙の後、太陽神は人生で一番深いため息をついた。
「……もう無理」
ぽつりと言い放ったその一言には、怒りも呆れも疲れも、そのすべてが入り混じっていた。
機織り殿の女神たちは、天井に空いた穴と転がる馬を前に、まだ動けずにいた。
遠くから「驚いたかーー!?」と元気な声が響く中、一柱の侍女神が「……姫様、怒りますよね」と小さく呟いたが、誰も答えることはできなかった。
怒る、絶対に怒るだろう。だがそれ以上に、今回は本気で傷つくはずだ。
アマテラスにとって機織り殿はただの仕事場ではない。穏やかで、整っていて、皆が安心して過ごせる高天原の秩序そのものの象徴だった。
そこへ空から皮を剥いだ馬を、しかも本人基準の善意で落としていくのだから、これ以上ない最悪の結末だった。
太陽宮では、アマテラスが長い間何も言わずにただ佇んでおり、そこには怖いくらいの静けさが満ちていた。侍女神たちも誰も声をかけられない。
怒鳴ってくれた方がまだいい、泣いてくれた方がまだいい——本当に限界を迎えた者は、ただ静かになるのだ。
「……私」
ぽつり、と太陽神が呟く。
「頑張ったと思うの」
誰も何も言えない。
「何度も話した、怒った、許した、待った、信じようともしたわ」
小さく笑う彼女の笑顔は、少しだけ壊れていた。
「でも、もう疲れた」
空気が一瞬で凍りつく。
高天原の中心たる太陽神がそんな顔をしたのを、これまで誰も見たことがなかった。
「少しだけ、静かな場所に行くわ」
アマテラスが立ち上がり、誰かが「姫様……?」と止めようとしたものの、その顔があまりにも疲れていたから、誰もそれ以上は動けなかった。
高天原の奥に佇む巨大な岩戸の前でも、アマテラスは振り返らなかった。
「少しだけ休むわ。誰も入れないで」
静かな声とともに重い岩がゆっくりと、どこまでもゆっくりと動き——そして閉じた。
ゴォン……と響く沈黙。
その瞬間、昼であるはずの空が少しずつ、少しずつ曇り、世界が暗くなっていく。
太陽の光が弱まり、風が冷え込んでいく異常事態に、当然のごとく神々がざわつき始めた。
「待って、待って待って」「まずくない?」「かなりまずい」
「太陽神、引きこもった!?」「世界終わる!?」
その時だった、遠くから空を飛びながら戻ってくる楽しそうな声が響いたのは。
「姉上ーー!」
満面の笑みを浮かべたスサノオが「祭りどうだった!?」と舞い降りてくる。
だが、振り返った全員の顔が死んでおり、そのもの凄い沈黙にスサノオは動きを止めた。
明らかにおかしい暗い空気に戸惑い、「……え? な、何?」と周囲を見渡すスサノオへ、農耕神が震える声で告げる。
「お前のせいだ」
「は?」
「アマテラス様が天の岩戸にお隠れになった」
その言葉にスサノオは数秒ほど停止した。あまりのことに理解が追いつかない。
「……え?」
「お前のせいでだ!」
空はさらに暗くなり、風は止み、寒々しい静けさが広がっていく。
そしてここで初めて、スサノオの顔からいつもの勢いが消え失せた。
「……姉上?」
小さく呟いたその声に、いつもなら返ってくる「声が大きい!」とか「まず謝りなさい!」という言葉は届かない。
空も風も、高天原のすべてが静まり返るその嫌な静けさの中で、スサノオがぽつりと「……岩戸?」と言葉を溢した。
農耕神がかなり本気で彼を睨みつけながら「お隠れになったんだ!」と吐き捨てる。
「いや、なんで?」
「お前だよ!!」
全員の勢いが凄まじいほどに一致し、スサノオは本気で分かっていない顔のまま少し後ずさった。
「……え、でも、祭り……」
「祭りじゃない!!」
すかさず海神が怒鳴る。
「皮を剥いだ馬を機織り殿に落とす祭りがあるか!!」
「驚いた方が盛り上がるかと……」
「方向性!!」「間違えた?」「全部だ!!」
神々が総ツッコミを入れる最中にも空はさらに暗さを増し、しんと冷え込む遠くの田畑から悲鳴が上がり始めた。
「作物が……!」「光が足りない!」「海流も止まり始めたぞ!」「寒い!」
広がるざわめきとともに神々の顔から余裕が消えていくのも無理はなかった。
太陽神とはただの偉い神ではなく世界そのものであり、彼女がいないということは、割と本気で世界が終わることを意味していた。
そして皆の重苦しい視線が、ゆっくりとスサノオへと向いていく。
さすがの彼もその視線の意味を理解し、「……俺? ……俺のせいなのか?」と呟いたが、誰もそれを否定しなかった。
スサノオが本当に言葉を失ったのは、これが生まれて初めてのことだった。




