第三話 分かれ
グレイ=ゲイツ伯爵家での生活も一年半が過ぎ、俺の肉体と精神は前世の「引きこもり」の影を完全に払拭していた。
昼間は、王国でも数少ない「剣王」の一人、マレー・オルドナ氏による地獄の稽古が待っている。マレー師匠の剣は、速すぎて目に見えない。「魔法を混ぜるな! 筋肉の叫びを聞け!」と怒鳴られながら、俺とマリアは連日泥まみれになって打ち合った。マリアも負けず嫌いで、木剣を振るう姿には凛とした美しさがある。
そして夜になれば、俺は一人で魔力拡張の自主練に励み、さらなる高みを目指した。
そんなある日、俺の10歳の誕生日を祝う会が伯爵邸で開かれた。
我が家からも、父エリオット、母セシリア、そして二人の妹――お転婆な長女のリリィと、まだ幼い次女のルナが駆けつけてくれた。
「ヘンリーお兄様、お誕生日おめでとう!」
妹たちに抱きつかれ、俺は鼻の下を伸ばす。前世では孤独だった俺に、こんなに温かい家族がいる。それだけで胸がいっぱいだ。
宴の最中、マリアが少し顔を赤くして俺に包みを差し出した。
「これ、私からのプレゼントよ。ヘンリーに一番似合うと思って」
開けてみると、そこには鈍く銀色に光る、美しい装飾が施された魔法の杖があった。
「……マリア、ありがとう。一生大切にするよ」
俺が杖を握ると、吸い付くように魔力が馴染む。最高の一日だった。
しかし、この家は相変わらず「グレイの血」が濃い。
主賓である俺が挨拶のためにアルバート様の部屋へ向かうと、廊下まであえぎ声が漏れていた。
「ああ、アルバート……もっと……っ!」
「エリス、君は今日も最高だ……」
(……またかよ。マリアの両親も、俺の両親に負けず劣らず盛っているな)
俺は苦笑いしながら、そっとその場を離れた。この一族にとって、性愛は生命力そのものなのだ。
その夜、宴が終わった後の静かな自室に、マリアが忍び込んできた。
俺たちは家庭教師と教え子という関係を超え、すでに深い仲になっていた。
薄暗い月明かりの中、マリアの白い肌が露わになる。俺たちは吸い寄せられるように唇を重ね、互いの体温を確かめ合った。
ある夜は、朝まで激しく求め合い、またある夜は、そこに至るまでの甘美な戯れ――前戯だけで、互いの情熱を溶かし合うような時間を過ごすこともあった。48歳の精神を持つ俺にとって、彼女との時間は何よりも官能的で、かつ魂を癒やす儀式のようだった。
「ヘンリー、ずっと一緒にいてね……」
「ああ、約束する」
だが、運命というやつは非情だ。
契約満了まであと半年というところで、それは起こった。
突如、空が不気味な紫色に染まり、巨大な渦がグレイ=ゲイツ領の上空に出現した。
「なんだ……あれは!?」
マレー師匠が叫び、剣を抜く。
それは、後に「魔力災害」と呼ばれる未曾有の天変地異だった。
凄まじい吸引力が大地を削り、人々を飲み込んでいく。俺は咄嗟にマリアの手を掴もうとしたが、一歩届かなかった。
「ヘンリー!!」
マリアの叫び声が遠ざかる。
俺の体は杖を握ったまま、視界を埋め尽くす白い光の中に消えた。
……どれくらい時間が経っただろうか。
背中に感じるのは、ひんやりとした砂の感触。耳に届くのは、聞いたこともない怪鳥の鳴き声。
目を開けると、そこには見たこともない植生が広がる未知の大地があった。
「……ここは、どこだ?」
家族も、マリアも、地位も。全てを失い、俺は見知らぬ大陸へと飛ばされてしまった。
だが、手の中にはマリアがくれた杖がある。
俺の本当の冒険は、ここから始まるのだ。




