第十九話 水神
鬱蒼と生い茂る木々は天を隠し、昼間であっても薄暗い。大陸の中央に位置する『万象の樹海』は、常人であれば足を踏み入れた瞬間に方向感覚を失い、濃密な魔力に当てられて発狂するとさえ言われる絶対の禁足地である。
俺は今、その最深部にある、奇妙なほど開けた円形の空間に立っていた。
そこには、ただ静寂だけが支配している。いや、静寂という名の「とてつもない重圧」が、空間そのものを押し潰そうとしていた。
円形の中央、苔生した巨大な岩の上に、一人の男があぐらをかいて座っていた。
質素な布の服を纏い、両目は古びた布で覆われている。年齢は不詳。白髪交じりの髪を後ろで無造作に束ねたその男からは、魔力も、殺気すらも感じられない。ただ、そこに「在る」という事実だけが、周囲の自然をひれ伏させていた。
俺は折れそうになる心を、龍神ヴォルガルドの特訓で培った精神力で無理やり繋ぎ止め、ゆっくりと口を開いた。
「七大神・第三位『技神』ゼノス殿。……ヘンリー・グレイ=クロスが、お前を越えるために参上したぞ」
俺の声が樹海に響き渡る。
岩の上に座っていた男――技神ゼノスは、覆われた顔をゆっくりと俺の方へ向けた。
「……龍の匂いがするな。それに、先んじて神位を簒奪した新たなる剣神の残り香も」
ゼノスの声は、風のようなどこか掴みどころのない響きを持っていた。
「我が名はゼノス。あらゆる武の頂きに座す者。……若き人間の挑戦者よ、貴様の覚悟、その身で示してみせよ」
ゼノスが静かに立ち上がった瞬間、周囲の空気が一変した。
「行くぞ!」
俺は先手必勝とばかりに、杖を構えずに両手から魔法陣を展開した。
無詠唱、多重展開。炎、風、土、雷――ありとあらゆる属性の下級魔法を極限まで圧縮し、数百という数で同時に撃ち出す。
「燃え盛れ、切り裂け、穿て! 『多重・元素豪雨』!」
視界を埋め尽くすほどの魔法の弾幕が、ゼノスへと殺到する。下級魔法とはいえ、今の俺の魔力で放てば一つ一つが大岩を粉砕する威力を持っている。
だが、ゼノスは一歩も動かなかった。
「……武の極致は、己の手で握るものに非ず」
ゼノスが指先を軽く振ると、彼を囲む空間が黄金に光り輝いた。
そこから現れたのは、無数の『武器』だった。剣、槍、斧、弓、戟――ゼノスの魔力によって創造された、実体を持つ光の武具たち。
「舞え、『千刃の飛剣』」
ゼノスの声と共に、空中に浮かぶ無数の武器が意志を持っているかのように迎撃を開始した。
俺の放った火球が光の剣に両断され、風の刃が光の盾に弾かれ、岩の弾丸が光の槍によって正確に撃ち落とされていく。数百の魔法が、ただの一発もゼノスに届くことなく、空間で虚しく爆散した。
「なっ……魔法を、武器で相殺しただと!?」
「魔法もまた、力の一つの形に過ぎん。軌道が読めれば、切り落とすことは容易い」
圧倒的な技術。魔法の連射では埒が明かないと悟った俺は、腰に帯びた剣を抜き放ち、自身の身体を強化してゼノスへと肉薄した。
「ならば、直接叩き切る!」
俺の剣が、ゼノスの首元へと迫る。しかし、ゼノスの手にはいつの間にか、魔力で形作られた長大な『槍』が握られていた。
キィィィンッ!!
俺の剣撃は、槍の石突でいとも容易く受け流された。力任せの攻撃の軌道を完全に逸らされ、俺の体勢が大きく崩れる。
「隙だらけだ」
ゼノスの声が耳元で聞こえた瞬間、彼の手の槍が消え、今度は巨大な『戦斧』が現れていた。
ドゴォォォンッ!!
「がはっ……!!」
戦斧の腹で脇腹を強かに打ち据えられ、俺の体は木々を何本もへし折りながら吹き飛ばされた。
「ぐぅっ……!」
地面を転がり、血を吐きながら立ち上がろうとするが、ゼノスはすでに追撃の体勢に入っていた。彼の手には双剣が握られ、瞬きする間もなく俺の懐に潜り込んでいる。
右の剣が俺の肩を浅く切り裂き、左の剣が俺の太ももを貫く。
「があああッ!」
「龍に鍛えられたようだが、所詮は泥縄。貴様の武には、確固たる『芯』がない。力を振り回しているだけだ」
ゼノスは冷酷に言い放ち、手にした武具を次々と変えながら俺を蹂躙した。
大剣で押し潰され、弓による至近距離からの矢で肩を射抜かれ、手甲による連撃で全身の骨が軋む。
「がはっ、ごほっ……!」
口から大量の血が溢れ出し、視界が赤く染まる。膝から崩れ落ちそうになるのを、剣を杖代わりにして必死に堪えた。
(……つえぇ……これが、第三位の力……)
ヴォルガルドの暴力的な強さとは違う。ゼノスの強さは、針の穴を通すような緻密さと、千変万化する技術の集合体だ。物理攻撃に対する完璧なカウンター。このままでは、オルスを倒すどころか、ここで死ぬ。
「……マリアは、第七位の座を奪った。……俺がここで、無様に負けるわけにはいかないんだよッ!」
俺は薄れゆく意識の中で、自身の魔力の根源に問いかけた。
俺が最も得意とし、最も深く理解している属性。土は聖級に至りつつあるが、俺の始まりであり、俺を『水帝』とあらしめた力は……『水』だ。
剣も、他の魔法もすべて捨てる。
ゼノスの技術を打ち破れるのは、小手先の技ではない。回避不可能な、圧倒的で純粋な「理の奔流」のみ。
俺は血に塗れた手で杖を握り直し、体内のすべての魔力を「水」へと変換し、極限まで圧縮した。
「まだ立つか。……無駄な足掻きだ」
ゼノスが光の大剣を構え、俺の首を刎ねようと踏み込んだ。
「……すべてを呑み込め。万象を流転させる、深淵の理よ」
俺の周囲の空間が、一瞬にして青く染まった。
空中の水分、樹海の木々が持つ水分、さらには俺自身の血液すらも魔力に変換し、俺の前に小さな、しかし超高密度の「水の一滴」を作り出す。
ゼノスの覆われた両目が、初めて見開かれる気配がした。
「それは……ッ!」
「水神級魔法――『滄海の一滴』ッ!!」
その一滴が弾けた瞬間、空間そのものが「海」に沈んだかのような錯覚に陥った。
避けることも、武器で切り裂くことも不可能な、全方位からの絶対的な水圧と破壊の奔流。ゼノスが慌てて無数の光の盾を展開するが、神級に至った水の理は、それらの魔力ごとすべてを粉砕し、呑み込んだ。
ズゴォォォォォォォォンッ!!!
樹海の一部が綺麗に抉り取られ、青い閃光が天を衝いた。
莫大な魔力を消費し尽くした俺は、そのままその場に仰向けに倒れ込んだ。
「はぁっ……はぁっ……」
空が見える。鬱蒼としていた木々が消し飛び、丸く開いた空から太陽の光が降り注いでいた。
「……カハッ、ははははははっ!!」
土煙の中から、笑い声が聞こえた。
満身創痍になりながらも、ゼノスがゆっくりと歩いてくる。彼の服はボロボロに引き裂かれ、口の端からは血が流れていたが、その顔には、これまで見せなかった歓喜の笑みが浮かんでいた。
「見事だ! 最後の一撃、まさに神の領域を穿つに相応しい理であった! 己の不完全な武を捨て、最も純粋な力でこの私の技術を正面から叩き潰すとはな!」
ゼノスは俺の傍に膝をつき、治癒の魔力を流し込んでくれた。
「……勝負は、私の負けだ。ヘンリー・グレイ=クロスよ」
「……ははっ、俺も、もう一歩も動けないけどな」
「だが、貴様の一撃は私を打ち倒した。……いいだろう。貴様には、武の極致に至る『素質』がある。オルスを討つと言ったな? ならば、私がこの身に刻んだあらゆる武の技術と、魔力による創造の理を、貴様に叩き込んでやろう」
それからの数日間は、樹海の中でゼノスによるマンツーマンの修行が行われた。
ヴォルガルドの暴力的な特訓とは打って変わり、ゼノスの指導は論理的で、魔力と身体の連動を極限まで高めるものだった。下級魔法を無駄なく武技に乗せる方法、自身の魔力を刃として定着させる技術。
俺の剣技は、ゼノスの指導によって飛躍的に向上し、魔法との完全な融合――『魔闘技』の領域へと到達しつつあった。
そして、別れの時。
ゼノスは俺に向かって、深く頭を下げた。
「貴様はすでに、私を超えた。技術だけでなく、その魂の在り方がな」
ゼノスは空を仰ぎ、世界そのものに宣言するかのように声を張り上げた。
「世界の理よ、聞くがいい! 我が名はゼノス! 今この瞬間をもって、七大神・第三位の座を降りる! そして、新たなる理を刻む者……『水神』ヘンリー・グレイに、この地位を明け渡す!」
その声は、魔力の波に乗って世界中へと響き渡った。
俺の体の中に、強大な「神の座」の権能が流れ込んでくるのを感じた。
「……ゼノス、感謝する」
「行くがいい、若き水神よ。貴様の往く道が、この停滞した世界を打ち破ることを期待しているぞ」
こうして俺は、六位のオルスを飛び越え、七大神・第三位『水神』としての力を手に入れたのだった。
時を同じくして。
エリシオン王国の王都ノルマをはじめ、世界中のあらゆる街、村、そして冒険者ギルドが、かつてないパニックと熱狂に包まれていた。
星の運行を司る教会の巨大な水晶が、神位の交代を明確に映し出したからだ。
「お、おい! 見ろよあの水晶! 第三位の星の色が変わったぞ!」
酒場でエールを飲んでいた冒険者が、窓の外の教会の塔を指差して叫ぶ。
「ま、マジかよ……第七位の『剣神』がマリア様っていう貴族の奥方に変わったばっかりだってのに……! 今度は第三位の技神様が敗れたってのか!?」
「新しい神の名前は……『水神』ヘンリー・グレイ!? おい、それってこの前、飛び級で伯爵になったっていう王女様の旦那じゃねえか!」
街角で、広場で、人々が口々に叫び、情報が駆け巡っていく。
「人間が、神の座を二つも奪うなんて……歴史始まって以来の異常事態だぞ!」
「す、すげえ……! ヘンリー伯爵、いや、水神様がいれば、もう魔物なんて恐れる必要はないんじゃないか?」
「ああ、間違いない。……世界が変わるぞ。何百年も続いた、七大神の顔ずらが、今、根底から覆ろうとしてるんだ……!」
名もなき市民たちが、夜空を見上げながら希望と畏怖の入り混じった声を上げる。
人間でありながら神の領域に足を踏み入れたグレイ=クロス家の存在は、停滞していた世界に強烈な変革の嵐を巻き起こそうとしていた。
そしてその嵐の中心で、水神ヘンリー・グレイは、来るべき魔神オルスとの最終決戦へ向けて、静かに剣の柄を握りしめていた。




