第十三話 日常
グレイ邸の朝は、新しく雇い入れたメイド、シルビアの澄んだ声から始まる。
彼女は没落貴族の出で、家事全般から護衛までこなす優秀な女性だ。マリアとニキシーの妊娠が発覚し、屋敷の管理と身の回りの世話を強化するためにアリスが厳選して雇い入れた人材である。
「ヘンリー様。本日のご予定ですが、午前中はノルマ魔法学院での講義、午後は生徒会業務となっております」
「ああ、ありがとうシルビア」
俺は身支度を整えながら、ふと寝室の方へ視線を向けた。昨晩、妻たちとの甘い時間を過ごそうとしたのだが、シルビアに廊下でぴしゃりと言い放たれてしまったのだ。
『ヘンリー様。マリア様もニキシー様も、お腹に大切な命を宿しておられます。生まれるまでは、お二方への夜の営みは絶対にお控えください。……旦那様の有り余る体力は存じておりますが、自重していただきます』
(……心の声まで読まれたかと思ったよ)
図星を突かれた俺は苦笑し、結果的に昨晩はアリスとだけ、互いの愛情を確かめ合うように静かで深い時間を過ごしたのだった。アリスの温もりは、激しい修練でささくれ立った俺の心をいつも優しく解きほぐしてくれる。
休日の朝である今日も、俺はアリスと二人きりで穏やかな朝の時間を過ごし、その後は日課である魔法の鍛錬へと向かった。
屋敷の裏庭に展開した防音・防魔結界の中で、俺は杖を構えていた。
対・七大神。特に、世界の理を書き換える『魔神オルス』の力に対抗するには、既存の帝級魔法を強化するだけでは足りない。奴の『概念乖離』は、あらゆる事象を分解してしまう。ならば、分解される前に「空間そのもの」を削り取るか、あるいは絶対に干渉されない次元の魔力を練り上げる必要がある。
「……魔力とは星の血脈。ならば、星そのもののエネルギーを一時的に我が身に固定する」
俺は目を閉じ、全属性の魔力を極限まで圧縮し、体内で融合させた。
赤、青、黄、緑……あらゆる魔力の光が混ざり合い、やがて純白の輝きへと変わっていく。
オリジナル魔法――『星脈の断罪』。
指先から放たれた純白の光線が、標的としていた巨大なミスリルの岩塊を「破壊」するのではなく、音もなく「消滅」させた。空間ごと切り取られたかのように、そこには真ん丸な虚無の穴が開いている。
「……威力は申し分ないが、魔力消費が異常だな。これでもまだ、神級の入り口に立った程度か」
俺は額の汗を拭い、確かな手応えを感じながら修練を切り上げた。
午後、俺は王都ノルマ魔法学院の地下深くにある特別研究室にいた。
ここには、日本からの転移者である星川奈々がいる。彼女と共に、俺たちは極秘裏にある研究を進めていた。
「ヘンリー、ここの術式だけど……空間座標の固定には、私が持っていたスマートフォンの基盤にある周波数パルスを魔力波長に変換すれば、元の地球の座標を拾えるかもしれないわ」
奈々が黒板にびっしりと複雑な数式と魔法陣を書き込んでいく。
「なるほど。この世界の魔力理論と、地球の物理法則の融合か。俺の帝級の空間魔法『次元回廊』を応用すれば、理論上はゲートを開けるはずだ」
俺たちが取り掛かっているのは、**『異世界転移魔法陣』**の作成。
奈々を元の世界へ帰すため、そして俺自身が二つの世界を行き来できる可能性を探るための壮大なプロジェクトだ。七大神という強大な敵が存在するこの世界で、万が一の際の逃げ道、あるいは新たな知識の供給源として、地球とのパスを繋ぐことは大きな意味を持つ。
「ヘンリーがいてくれて本当によかった。私一人じゃ、一生かかっても無理だったわ」
奈々が嬉しそうに微笑む。その笑顔を守るためにも、俺はこの研究を必ず成功させると心に誓った。
研究室を出た後、俺は生徒会室へと向かった。
現在、ノルマ魔法学院の生徒会長を務めているのは、第二王女である我が妻、アリスだ。俺は役員(主に力仕事とトラブル解決担当)として彼女を支えている。
「あ、ヘンリー様! お疲れ様ですわ!」
書類の山に囲まれていたアリスが、俺の顔を見るなりパッと花が咲いたような笑顔を見せた。学園中から憧れの的となっている彼女だが、俺の前でだけ見せるこの無防備な顔が愛おしい。
「お疲れ、アリス。無理してないか?」
「ヘンリー様のお顔を見たら、疲れなんて吹き飛んでしまいましたわ!」
そんな微笑ましい夫婦のやり取りの傍らで、ソファにだらしなく寝そべりながら盛大なため息をつく男がいた。アリスの護衛であり、俺の悪友でもあるベン侯爵家の長男、メドリオだ。
「……はぁ。お前はいいよな、ヘンリー。学園最強で、帝級魔法使いで、アリス様という世界三大美女の一人と結婚して、おまけに子供までいてさ」
メドリオは恨めしそうな目で俺を睨んだ。
「それに比べて俺はどうだ? 侯爵家の跡取りだっていうのに、最近は護衛任務と書類仕事ばかりで出会いも何もない。夜なんて、むなしく一人でアリス様をおかずに自慰行為して寝るだけだぜ……泣けてくるだろ?」
「自業自得だろ。お前、この前も言い寄ってきた令嬢を『今は剣の修行が忙しい』とか言ってフッてたじゃないか」
「あれは俺のタイプじゃなかったんだよ! くそっ、俺もヘンリーみたいに運命の出会いが欲しいぜ……」
ぼやくメドリオを適当にあしらいながら、俺はアリスの仕事を手伝った。
昼休み。俺はアリスを連れ出し、二人きりで昼食をとることにした。
他の生徒の目を避け、体育館の裏手にある静かな木陰に腰を下ろす。アリスが早起きして作ってくれたという弁当は、彩りも味も完璧だった。
「美味しいか、ヘンリー様?」
「ああ、最高だ。アリスの料理の腕はどんどん上がってるな」
「ふふっ、ヘンリー様の胃袋を掴んでおくのも、妻の重要な務めですから」
食後、木漏れ日の中でアリスが俺の肩にコツンと頭を預けてきた。甘いフローラルの香りが鼻腔をくすぐる。
「……ヘンリー様。最近、ずっと修練や研究で忙しそうでしたから。こうして二人きりでゆっくりできる時間が、とても愛おしいです」
「ごめんな、寂しい思いをさせて」
俺は彼女の顎にそっと手を添え、優しく唇を重ねた。静かな学園の裏庭で、誰にも邪魔されない二人だけの時間が流れる。その後、生徒会室に戻ってからも、他の役員が来るまでの間、俺たちは互いの体温を確かめ合うように密やかなスキンシップを楽しんだ。
夕刻。学園での業務を終え、屋敷へと帰還する。
リビングの扉を開けると、そこにはこの上なく幸せな光景が広がっていた。
「あ、お父様! おかえりなさい!」
元気な声と共に駆け寄ってきたのは、アリスとの間に生まれた秘密の愛息、レオンだ。アリス譲りの美しい金髪と、俺と同じ深い黒の瞳を持つ、やんちゃで賢い男の子。俺は彼を軽々と抱き上げ、頬ずりをした。
「ただいま、レオン。いい子にしてたか?」
「うん! 今日はシルビアに剣の素振りを教えてもらったんだ!」
ダイニングテーブルには、シルビアが腕によりをかけた豪華な夕食が並べられていた。
お腹が少しふっくらとしてきたマリアとニキシーも席に着き、温かな笑顔で俺を迎えてくれる。
「おかえりなさい、ヘンリー。今日はいいお肉が手に入ったのよ」
「あなたの好きなシチューも作ったわ。たくさん食べなさいね」
アリスも着替えを済ませて隣に座り、家族全員が揃った。
「それじゃあ、今日も一日無事に過ごせたことに感謝して。いただきます」
賑やかで、笑顔が絶えない食卓。
前世の四畳半で、コンビニ弁当を一人でかき込んでいた日々が嘘のようだ。マリアが妊娠中の体調の変化を語り、ニキシーが新しい魔法の構想を話し、レオンが今日の出来事を無邪気に報告する。シルビアも時折会話に加わりながら、完璧な給仕で場を和ませてくれている。
食後、俺は温かい紅茶を飲みながら、この光景を深く瞳に焼き付けた。
七大神。魔神オルス。神級の脅威。
これから先、どれほどの絶望が待ち受けていようとも、俺はこの日常を、この愛する家族を、俺の命に代えても守り抜く。
夜が更け、屋敷が静寂に包まれる頃。俺はアリスと共に寝室へと向かった。
家族の温もりを胸に抱きながら、明日への活力を養うための、穏やかで満ち足りた夜が過ぎていった。




