第十二話 生命
王都ノルマの特別病棟から退院し、広大なグレイ邸(アリスの口利きにより王室から下賜された豪邸である)での生活が再開してから、数週間が経過していた。
あの日、神級魔法使いオルス・メルドリゴドラから受けた圧倒的な敗北感と絶望は、俺の心に深く刻み込まれていた。俺は帝級の魔法使いとなり、この世界で最強の部類に入ったと自惚れていた。だが、現実は違った。上には上がいる。それも、理不尽なまでに強大で、愛する家族を一瞬で奪い去ろうとする存在が。
ある夜、豪邸の広々としたサロンで、俺は三人の妻たち——マリア、ニキシー、アリス——と共にソファに腰を下ろし、温かい紅茶を飲んでいた。暖炉の火がパチパチと爆ぜる中、俺はずっと胸につかえていた疑問を口にした。
「ニキシー。あの日……幻の大森林で俺たちを襲った『オルス・メルドリゴドラ』について、何を知っている? 奴は自らを『魔神』と名乗り、星の魔力均衡を管理すると言っていた。あれは、一体何者なんだ?」
かつては「師匠」と呼んでいた彼女だが、今では対等な夫婦として、互いに名前で呼び合うようになっていた。ニキシーはティーカップを静かにテーブルに置くと、少しだけ瞳を伏せ、重々しい口調で語り始めた。
「……ヘンリー。あなたも、おとぎ話や神話の中でその名前を聞いたことがあるはずよ。この世界において、神級や聖級という人智を超えた領域に辿り着いた者たちの中で、さらに頂点に君臨する最も強大な七人の存在。つまり、神を除いたこの世で最も強い生物七人よ。人々は畏怖を込めて、彼らを『七大神』と呼んでいるわ」
「七大神……」俺は呟いた。「実在していたのか。ただの伝説じゃなく」
「ええ、実在するわ。この世界で彼らを知らない者は、無知な子供くらいのものよ」
ニキシーの言葉を引き継ぐように、剣帝であるマリアが真剣な表情で頷いた。
「ヘンリー、私の目標とする剣の極致にも、その存在が君臨しているわ。下から順に説明するわね。第七位が『剣神』。第六位が、あの日私たちを襲った『魔神』。第五位が『死神』。第四位が『鋼神』。第三位が『技神』。第二位が『滅神』。そして、頂点である第一位に君臨するのが『龍神』よ」
「……オルスは、その第六位の『魔神』だったというわけか。あれほどの絶望的な力を持っていながら、下から二番目……!?」
俺は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
「そうよ、ヘンリー」ニキシーが続ける。「オルスは元々はただの人間よ。でも、遥か昔から生き続けている不老の存在なの。彼はこの世界を創り上げたとされる『五大大神』と呼ばれる真の神々の一柱に仕える代行者。だからこそ、星の魔力均衡を保つために、あなたのような規格外の急成長を遂げた存在……『異常値』を排除しに来たのね」
アリスが俺の腕にぎゅっとしがみつき、不安そうに身を寄せた。
「ヘンリー様……七大神の恐ろしさは、王家の記録にも深く刻まれておりますわ。特に上位三人……『技神』、『滅神』、『龍神』の三柱は、本気を出せば巨大な国家ですら一晩で滅ぼし、大陸の形すら大きく変えてしまうと言われているのです」
「大陸の形を変える……」
「ええ。例えば、第三位の『技神』は、自らが本物の神に成るという野望のために、すでに数百年前から生きてあらゆる技術を極め続けていると聞くわ。そして頂点の『龍神』に至っては、創造主である五大大神の一柱『ジン神』を倒すという目的のためだけに、数百年も前からこの世界を旅しているという伝説があるのよ」
俺は両手を強く握りしめた。
帝級に至り、全てを守れると思っていた。だが、世界は広すぎる。龍神は神を殺すために旅をし、技神は神に成るために生きている。オルスのような化け物が、あと六人もいる。いや、彼らを従える五大大神まで含めれば、俺の力などまだちっぽけな灯火に過ぎない。
「……立ち止まっている暇はないな」
俺の言葉に、三人の妻たちが力強く頷いた。
「俺はもっと強くなる。神級に至り、七大神だろうが五大大神だろうが、お前たちを脅かす全ての理不尽を叩き潰せるだけの力を手に入れる」
その日から、俺たちの生活は「愛の巣での休息」から「神殺しのための修練場」へと変わった。
グレイ邸の広大な裏庭には、俺が帝級魔法で幾重にも防御結界を張った専用の修練場を作った。毎日、日が昇ると同時に厳しい鍛錬が始まる。
「ヘンリー、行くわよ!」
マリアの鋭い掛け声と共に、神速の剣撃が放たれる。彼女は剣帝としての技術をさらに研ぎ澄まし、ただの物理攻撃ではなく、剣気を空間そのものに干渉させる『次元斬り』の領域へと足を踏み入れようとしていた。
「甘いぞ、マリア!」
俺は一切の詠唱を行わず、純粋な魔力操作のみで空間の壁を創り出し、彼女の剣を受け止める。かつては水属性の圧倒的な出力に頼っていたが、今は全属性の魔力を細胞一つ一つに浸透させ、瞬時に事象を書き換える「神級」への到達理論を実践していた。
「あなた、右が空いているわよ!」
ニキシーが上空から炎と氷の混合魔法の雨を降らせる。彼女もまた、王級の先を目指し、相反する属性を同時に操るという神業に挑戦していた。
「ヘンリー様、皆様、強化の光を!」
後方からはアリスが、回復と能力向上のバフを極限まで高めて俺たちにかけ続ける。
泥にまみれ、息を切らし、魔力が空になるまで限界を追い求める日々。誰一人として弱音を吐く者はいなかった。あの日、愛する者が血の海に倒れた光景。二度とあんな思いはしたくない、させたくないという強烈な意志が、俺たちを一つに結びつけていた。
夜になれば、鍛錬で傷つき疲労した体を、互いの温もりで癒し合った。
豪邸の最も奥にある巨大な寝室。そこは俺たち四人だけの聖域だ。過酷な修練を終えた後、俺たちは広々としたベッドで幾重にも肌を重ね合わせた。
「ヘンリー……あなた……」
「愛しているわ、ヘンリー。もっと……あなたの全てを感じさせて……」
「ヘンリー様……私、とても幸せですわ……」
マリアの鍛え抜かれたしなやかな体温、ニキシーの成熟した魔力の薫り、アリスの高貴で柔らかな感触。
死の淵から蘇った俺たちは、生きていることの喜び、そして互いが隣に存在していることの奇跡を確かめ合うように、毎晩のように深く、熱く愛を交わした。俺の体内に燻る膨大な魔力は、彼女たちと交わることで静かに循環し、魂の奥底まで結びついているような絶対的な充足感を与えてくれた。激しい戦いの記憶を塗り替えるような優しく甘い時間は、俺にとって何よりも大切なものだった。
――そんな日々が、数ヶ月続いたある日のこと。
朝の修練に出ようとした時、マリアがふらりとよろめき、顔面を蒼白にしてその場にへたり込んだ。
「マリア! どうした、体の調子が悪いのか!?」
俺が慌てて駆け寄ると、彼女は口元を押さえながら苦しそうに息を吐いた。
「ご、ごめんなさい、ヘンリー。なんだか最近、朝起きるとすごく気分が悪くて……体が鉛みたいに重いの……」
それを聞いたニキシーが、ハッとしたように目を見開いた。
「……マリア、あなた、もしかして……。そういえば、私も最近、月のものがずっと来ていないわ。魔力調整の乱れかと思っていたけれど……」
アリスがパチンと手を合わせた。
「ヘンリー様! これは、もしかすると、もしかしますわよ! すぐに王都の特別病院へ行きましょう!」
アリスの王族としての権限を使い、俺たちはすぐさま王都の最も権威ある病院へと向かった。
厳重に警備された王室専用の診察室。長年、高位魔法使いや貴族の体を診てきた老練な医師が、特殊な魔法器具と魔力測定を用いてマリアとニキシーの体を丁寧に診察した。
待合室で手を握り合いながら祈るように待つ俺とアリス。
やがて診察室の扉が開き、医師が穏やかな、そして確信に満ちた笑顔を浮かべて出てきた。
「ヘンリー様。……おめでとうございます」
医師は深く頭を下げた。
「マリア様も、ニキシー様も、おめでたです。お二人とも、ごく初期ではありますが、お腹の中に間違いなく新しい命……ヘンリー様の魔力を受け継いだ、力強い生命の光が宿っております」
「っ……!!」
俺は息を呑んだ。頭の奥が真っ白になり、次いで、言葉にできないほどの巨大な喜びと感動が胸の奥から爆発するように込み上げてきた。
診察室から出てきたマリアとニキシーは、二人ともポロポロと涙を流していた。
「ヘンリー……私、あなたのお母さんになるのね……!」
マリアが泣き笑いの表情で俺の胸に飛び込んでくる。
「ふふっ……かつての出来の悪いバカ弟子が、まさか私の子供の父親になるなんてね……。愛しているわ、ヘンリー」
ニキシーも優しく微笑みながら、自身のお腹を愛おしそうに撫でた。
「マリア、ニキシー……ありがとう……本当に、ありがとう……!」
俺は二人を両腕に抱きしめ、前世から今世を通じて初めて、声を上げて号泣した。
四十八年間、誰からも愛されず、何も残せなかった孤独な男が、異世界で最強の力を得て、愛する妻たちを娶り、そしてついに自分の血を分けた「家族」をその手に抱こうとしているのだ。
「ヘンリー様、本当におめでとうございますわ! 私も、負けていられませんね!」
アリスが涙を拭いながら、満面の笑みで俺たちを祝福してくれた。
七大神の脅威、世界の真理、そして迫り来るかもしれないオルスの影。
立ちはだかる壁はどれも途方もなく高く、絶望的だ。だが、今の俺にはもう迷いはない。
この腕の中に宿った新しい命。この絶対的な光を守り抜くためなら、俺は魔神だろうが龍神だろうが、世界の理そのものだろうが、必ず越えてみせる。
王都ノルマの空は抜けるように青く、グレイ家を包み込む春の風は、これからの希望を祝福するようにどこまでも暖かかった。




