第十一話 敗北
王都ノルマでの騒動から数ヶ月。俺、ヘンリー・グレイは三人の妻たち——マリア、ニキシー、アリス——と共に、王都から遠く離れた『幻の大森林』へと足を踏み入れていた。
目的は、魔物討伐を兼ねた家族旅行のようなものだ。帝級魔法使いとなった俺と、剣帝マリア、王級魔法使いニキシー、そして第二王女でありながら優秀な支援魔法の使い手であるアリス。この四人が揃えば、大陸のいかなる危険地帯であろうとピクニックと大差ないはずだった。
「ふふっ、ヘンリー。見て、あそこに大きな『ミスリル・ボア』がいるわ。今日の夕食は猪肉のローストにしましょうか」
ニキシーが艶やかな笑みを浮かべながら杖を指し示す。
「いいですね、師匠。でも、仕留めるのは私にお任せを。最近、剣の腕が鈍っていないか確かめたいので」
マリアが腰の剣に手をかけ、楽しげに笑う。
アリスも俺の腕に抱きつきながら、「ヘンリー様が焼いてくださるお肉、とっても楽しみですわ」と頬を染めていた。
俺は苦笑いしながら、三人の愛する妻たちを見つめた。前世の四十八年間、四畳半の部屋で孤独に震えていた引きこもりの俺が、今やこんな絶世の美女たちに囲まれている。信じられないような幸福の絶頂。この幸せを守り抜くためなら、俺はどんなことでもできると本気で思っていた。
だが、運命というやつは、人間が幸福の絶頂にいる時を狙って、最も残酷な牙を剥くものだ。
ピタリ、と。
突然、森から一切の音が消え去った。鳥のさえずりも、風に揺れる木々のざわめきも、そして先程までそこにいたはずの魔物たちの気配も、すべてが「存在しなかった」かのように消失したのだ。
「……何よ、これ。魔力の流れが……死んでる?」
いち早く異変に気づいたニキシーが、顔を青ざめさせて空を仰いだ。
俺も全身の産毛が逆立つような、これまでに感じたことのない圧倒的な悪寒を覚えた。帝級に至った俺の魔力感知能力が、警鐘を通り越して悲鳴を上げている。
空間が、ガラスのようにパリンと音を立てて割れた。
そこから現れたのは、純白の法衣を纏い、背に後光のような魔力の輪を背負った、長い銀髪の男だった。その瞳は、人間や魔物のそれではない。感情が一切抜け落ちた、ただ「事象」を観測するだけの無機質なガラス玉のようだった。
「……見つけたぞ、世界のバグ(異常値)よ」
男の声が響いた瞬間、大気が重力を増したかのように俺たちの肩にのしかかった。マリアでさえ膝を折りそうになるほどの重圧。
「お前は……誰だ!?」
俺は妻たちを背後にかばいながら、マリアから贈られた銀の杖を構えた。
「我が名はオルス・メルドリゴドラ。『神級』に至り、この星の魔力均衡を管理する者だ。ヘンリー・グレイ。貴様は本来の運命の糸から逸脱し、短期間で帝級にまで至った。その存在自体が星の理を狂わせている。故に、ここで消去する」
神級魔法使い。
伝説の中にしか存在しないとされていた、世界の法則そのものを書き換える神の代行者。俺は冷や汗が背中を伝うのを感じた。エンシェント・デトネーターと対峙した時とは比べ物にならない。次元が違うのだ。
「……俺を殺すだと? 笑わせるな。俺には、守るべき家族がいるんだよ!」
交渉の余地はないと悟った俺は、先手必勝で魔力を解放した。
水属性帝級魔法――『水天一碧の滅び(アビス・エンド)』。
森を消し飛ばしたあの究極の一撃を、初手からオルスに向けて放つ。絶対零度と超水圧の渦が、空間を削り取りながら純白の男へと迫る。
だが、オルスは表情一つ変えなかった。彼は杖すら持っていない。ただ、軽く指を鳴らしただけだった。
神級魔法――『概念乖離』。
俺の放った帝級魔法が、オルスの目の前で「水」と「力」と「冷気」というバラバラの要素に分解され、無害な霧となって霧散してしまった。
「なっ……!?」
「帝級とは、事象の限界点。だが、神級は事象のルールそのものを創り変える。無駄な足掻きだ、異常値よ」
オルスが右手を掲げると、空中に無数の黒い球体が現れた。それは周囲の光さえも吸い込む「無」の塊だった。彼の手が振り下ろされると同時に、その黒球が雨あられと降り注いできた。
「くそっ!」
俺も無詠唱で防壁を展開する。
土属性王級魔法――『大地の城塞』。
風属性王級魔法――『暴風の結界』。
何十層にも重ねた結界が、黒球と衝突しては紙切れのように消し飛ばされていく。俺とオルス。この空間において、息をするように無詠唱で超絶魔法を放ち合えるのは俺たち二人だけだった。激しい魔力の衝突で、周囲の森はクレーターと化し、地形そのものが変断していく。
「ヘンリー、一人で戦わせないわ!」
背後から、ニキシーの叫び声が響いた。
普段なら無詠唱で魔法を操る彼女だが、オルスが放つ神級の魔力干渉によって空間の理が歪められており、正確な魔法構築には完全な詠唱が必要になっていた。
「深淵より出でし蒼き氷の女王よ、我が魔力を糧とし、万物を縛る絶対零度の檻となれ! 王級水属性魔法――『氷華・絶対封刃』!」
ニキシーの杖から放たれた極寒の氷の刃が、オルスの死角を突いて殺到する。
「大いなる大地の精霊よ、母なる慈愛の盾を以て、愛しき者を守る堅牢なる城壁となれ! 王級土属性防御魔法――『イージスの抱擁』!」
アリスが詠唱を完了させ、俺と妻たちの周囲に黄金に輝く絶対防御の盾を展開する。
「はぁぁぁっ!!」
そして、アリスの盾とニキシーの魔法で生まれた僅かな隙を見逃さず、剣帝マリアが地を蹴った。光の速さをも超える神速の抜刀術。『剣帝奥義・閃の太刀』。
「……鬱陶しい羽虫どもが」
オルスは忌々しげに舌打ちをした。彼は俺というイレギュラーを消すことしか頭になく、ただの人間である妻たちを完全に侮っていたのだ。
ニキシーの氷刃がオルスの魔力障壁を削り、その綻びを縫うようにマリアの剣がオルスの左腕を浅く切り裂いた。神の血が、初めて大地に滴り落ちた。
「やった……!」
マリアが着地し、振り返った瞬間だった。
「身の程を知れ、矮小なる命よ」
激怒したオルスの瞳が赤く染まる。彼は無詠唱で、空間そのものを圧縮して弾けさせる神級魔法を放った。
「しまっ——みんな、伏せろ!!」
俺の叫びも虚しく、アリスの張った『イージスの抱擁』ごと空間が爆発した。
「きゃぁぁぁっ!!」
「マリア! アリス!」
ニキシーの悲鳴が響き、三人の身体がボロ布のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。全身から血を流し、ぴくりとも動かなくなる。
「あ……ああ……」
俺の頭の中で、何かがぶつりと千切れる音がした。
俺の、大切な家族。前世からずっと欲しくて、ようやく手に入れた、俺の全て。
それを、このふざけた自称神が壊した。
「許さない……絶対に、殺す……ッ!!」
俺の体内で、帝級の器を超えた魔力が暴走を始めた。血の涙を流しながら、俺は自身の生命力そのものを魔力に変換し、マリアの銀の杖に全てを注ぎ込んだ。
狙うは、相打ち。俺の命と引き換えに、この神を道連れにする。
「……狂ったか、異常値。己の存在そのものを起爆剤にするとは」
オルスも初めて焦りの表情を見せ、最大の防御魔法を展開しようとした。
「消えろぉぉぉぉぉぉッ!!」
全属性混合・限界突破魔法――『終焉の極光』。
俺の全存在を賭けた一撃が、オルスを飲み込んだ。白と黒の閃光が交差し、視界が完全に白に染まる。全身の骨が砕け、肉体が内側から焼き切れるような激痛。
「……バカ、な……神である、私が……ただの、人間に……」
光の束の中で、オルスの右半身が完全に消し飛び、彼は呪詛の言葉を吐きながら、次元の裂け目へと逃げるように転移して消え去った。
「はは……やった、ぞ……」
俺はそのまま力尽き、血の海となった大地に倒れ伏した。薄れゆく意識の中、遠くで妻たちの微かな呼吸音が聞こえたのだけが、唯一の救いだった。
「……イヤ……死なないで、ヘンリー! お願い、神様……っ!」
遠くで、誰かの泣き叫ぶ声が聞こえる。
奇跡的に一命を取り留めていたアリスが、自身の重傷も顧みず、血塗れになって俺のそばに這い寄り、必死に詠唱を紡いでいた。
「光の女神よ、我が祈りを聞き届け、失われし生命の泉を今ここに蘇らせたまえ……っ、天の奇跡よ、愛する彼の者の肉体を、どうか……どうか紡ぎ直せっ!! 上級治癒魔法――『女神の涙』!」
アリスの涙と共に、温かい光が俺の死にかけていた肉体を包み込む。千切れた血管が繋がり、止まりかけていた心臓が再び脈打ち始める。だが、神級魔法の直撃と自身の魔力暴走の代償はあまりにも大きく、俺の意識はそのまま深い暗闇へと沈んでいった。
目を覚ますと、そこは真っ白な天井だった。
消毒液の匂い。王都ノルマにある、王室専用の特別病棟だ。
俺は一命を取り留めた。マリアもニキシーもアリスも、重傷を負いながらも命に別状はなく、別の病室で回復に向かっていると聞かされた。
だが、俺の体には深刻な後遺症が残っていた。
無理やり魔力回路を限界突破させた反動で、体内で制御不能な「魔力熱」が絶えず発生するようになってしまったのだ。全身が熱く火照り、理性が焼き切れそうになる。この過剰な魔力を定期的に体外へ「放出」しなければ、内側から破裂してしまうという。
深夜の病室。俺は高熱にうなされ、荒い息を吐いていた。
「ハァ……ハァ……くそっ、体が、熱い……」
そこに、一人の若い看護師が入ってきた。彼女はこの特別病棟で、俺のような高位魔法使いの「魔力熱」の症状と、その「治療法」について特別な訓練を受けていた。
「ヘンリー様。……もう、限界ですね」
彼女は静かにドアの鍵を閉めると、薄暗いランプの灯りの中、制服のボタンを外し始めた。
「だ、だめだ……俺には、妻が……」
「これは『治療』です。それに……ヘンリー様のように国を救った英雄のお役に立てるなら、私は本望です」
彼女の冷たく滑らかな手が、俺の火照った胸板に触れる。その瞬間、抑え込んでいた生存本能と、オスとしての根源的な欲望が理性のタガを吹き飛ばした。
俺は彼女の細い体をシーツに引き倒した。
「……すまない」
「いいえ……全部、吐き出してください」
熱に浮かされたまま、俺は彼女と深く肌を重ねた。行為の最中、俺の体内から溢れ出す過剰な魔力が彼女の体を通じて放出されていくのを感じた。それは背徳的でありながら、命を繋ぐための切実で、そしてひどく甘美な夜だった。彼女の献身的な「治療」のおかげで、俺の魔力熱は徐々に平熱へと戻っていった。
それから数週間後。
俺はついに退院の日を迎えた。病院の正面玄関を出ると、そこには見慣れた三人の姿があった。
「ヘンリー!!」
まだ包帯の痛々しい姿のマリアが、涙ぐみながら俺の胸に飛び込んできた。
「バカ弟子……本当に、死ぬかと思ったのよ……!」
ニキシーが目を赤くして俺の背中を抱きしめる。
「ヘンリー様……生きていてくださって、本当によかった……っ」
アリスが俺の腕にすがりつき、大粒の涙を流す。
「ごめんな、心配かけて。……でも、俺は絶対に死なない。君たちを置いてなんて、いけないからな」
俺は三人を力強く抱きしめ返した。
(オルス・メルドリゴドラ……俺は、必ずお前を超える)
神級という圧倒的な絶望を味わい、己の無力さを痛感した。
この愛する家族を守り抜くため、俺は帝級のさらに先——『神級』へと至る決意を、王都の青空の下で静かに、そして固く心に誓ったのだった。




