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9/30

9話


 あの黒い霧の騒ぎから、数日が経った。


 そして今日は、朝からやけに動きがいい。


「そろそろ発つ準備をするか」


 宿の部屋でそう言って、アレンは腰のポーチを確認した。どうやらこの町を出る準備をするらしい。少し前にあと数日で発つとは聞いていたが、いよいよ、という感じだ。


 オレは窓辺からその様子を眺めながら、しっぽをゆらりと揺らす。

 

 町はもう落ち着きを取り戻している。

 

 広場では子どもたちが走り回り、屋台はいつも通り客を呼び込み、ギルドの空気もだいぶ和らいだ。追加の異変は起きていない。少なくとも表面上は、だ。


 アレンは相変わらず淡々としているが、以前よりほんの少しだけ周囲への視線が鋭くなった気がする。


 歩きながら、さりげなく空気を読むような、そんな目だ。オレも同じだ。見えてしまうから、どうしても探してしまう。


 市場へ着くと、まず向かったのは肉屋だった。店先には吊るされた干し肉や香辛料をまぶした保存肉が並んでいる。匂いが強い。鼻が勝手にひくつく。


「干し肉を多めにくれ。保存の利くやつだ」


 店主が頷き、包みをいくつも用意する。ずっしりと重そうな量だ。オレはアレンの腕の中からそれを見つめる。こんなに持てるのか?


 だがアレンはそれを何の躊躇もなく、腰のポーチへ入れた。


 するり。入った。


 は?


(いや、入る量じゃないだろ今の)


 オレは思わず目を見開く。ポーチは普通の大きさだ。干し肉の包みの方が大きいくらいだぞ?


 アレンはそんなオレを見て、口角が少し、上がってる。


 アレンは次にパン屋へ向かった。焼きたての丸パンを大量に買い込む。紙袋いっぱいのパン。それもまた、迷いなくポーチへ。


 するり。消えた。


 オレは我慢できず、アレンの肩から身を乗り出し、ポーチを覗き込む。普通の革製ポーチのはずだ。


 どーなってんだそれ。


 オレは前足でぽんぽんとポーチを叩く。


 アレンが視線を落とす。


「気になるか」


 気になるに決まってる。


 アレンがポーチを開けて中を見せてくれる。


 オレはじっとポーチを見つめる。すると、見える。うっすらと、複雑に絡み合った光の線。袋の内側に、円と文字のようなものが重なっている。空間が歪んでいる。袋の内側が、外側と一致していない。


 なるほど。魔術か。


「マジックバックだ」


 アレンが説明する。


「中に空間拡張の魔術式が刻んである。容量は見た目よりずっと大きい。ついでに時間経過の減速も入ってる」


 時間経過の減速?


 オレは首を傾げる。


「中の物は傷みにくい。遠征用だ。少し値は張るが冒険者たちは重宝している」


 ほう。


 つまり、この袋の中だけ時間の流れが少し遅いってことか。空間を広げて、固定して、時間を緩める。


 オレの目には、その術式が淡く光って見えている。複雑だが、綺麗に組まれている。流れは安定している。さすが高級品だ。


 オレは満足げに頷く。


 すごいな、これ。


 アレンはそんなオレを見下ろして、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「……やっぱり分かるのか?」


 その声は独り言に近い。


 オレは顔を上げる。


「普通の猫は、そんなふうに覗き込まんよな」


 ……あ。


 しまったか?


 オレは一瞬固まり、それから何でもないふうに毛づくろいを始める。気にしてませんよ、という顔だ。


 だがアレンの視線は外れない。観察する目だ。疑っているというより、確かめている。


 オレはちらりとポーチを見る。やっぱり見える。光の線が、はっきりと。術式の構造までなんとなく分かる。


 この光の糸は綺麗だ。


 普通は、見えないんだよな?

 オレも少し前まではこんなの見えてなかったし。


 他の人間がこれを不思議そうに見ている様子はない。ただ便利な袋として扱っている。術式を“視る”という発想自体がないのかもしれない。


 アレンはそれ以上追及しなかった。


「……まあいい。お前に問題がないならいい」


 そう言って、次の店へ向かう。薬草屋だ。乾燥させた薬草や包帯をいくつか買い足し、それもまたポーチへ収める。


 オレはその一連の動作をじっと見つめ続けた。


 光が揺れる。


 術式が開き、物を受け入れ、静かに閉じる。


 見える。はっきりと。


 そして、アレンはそんなオレをじっと見ていた。


 町の通りは穏やかだ。買い物客の声、子どもの笑い声、風に揺れる旗。何も変わらない日常の中で、ひとつだけ確かなことがある。


 オレは、見えている。


 そしてアレンは、それに気づきかけている。


 オレはアレンの肩で姿勢を整え、腰のポーチをもう一度だけ見つめた。


「おーい!そこのおにーさん!」


 そのとき、横から軽い声が飛んできた。



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