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8/30

8話


 その異変に、最初に気づいたのは子どもだった。


 広場の端。

 屋台が並び、夕暮れ前の雲間から差す柔らかな光が石畳を染めている。


 ふと、空気が歪んだ。


 揺らぎは小さかった。

 だが、次の瞬間――


 小さな、黒光りするボールのようなものが空中に現れた。


「……なに、あれ?」


 子どもの声に、周囲の大人たちが振り向く。


 暗い靄がまとわりつき、それはゆっくりと形を持ち始めた。


 四足。

 だが輪郭は定まらない。

 身体は黒い霧でできているようで、全体が鈍く脈打っている。


 誰かが呟いた。


「魔獣……?」


 次の瞬間、それは跳ねた。


 近くの屋台が弾き飛ばされる。木片が宙を舞う。


 悲鳴。


 人々が一斉に散る。


「逃げろ!」


 だが靄は速い。

 逃げ遅れた男の腕を掠める。


 触れた部分が黒く染まり、男が倒れ込む。


 ざわめきは恐慌へ変わった。


 誰も、あれが何なのか理解できないまま。


 それは広場の中央で、蠢いていた。

 まるで、何かを探すように。


 ***


「……ん?」


 武器屋の中で、アレンがわずかに顔を上げた。


 外から届く、遠い悲鳴。


 オレの耳が先に反応する。ぴくり、と。

 次の瞬間、ぞわりと背筋を走る感覚。


 あの揺らぎ。


 広場の端で見た“嫌な感じ”が、一気に膨れ上がっている。全身の毛が逆立つ。


(やばい)


 オレは即座に立ち上がる。


 ざわざわとした外の騒動が、小さく聞こえる。


 おっちゃんも顔をしかめる。


「……騒がしいな」


 悲鳴がはっきり聞こえた。


 アレンは迷わなかった。

 剣を腰に固定し直し、外套を翻す。


「見てくる」


 低い声。


 武器屋のおっちゃんが頷く。


「気をつけろ」


 扉が勢いよく開く。


 オレは咄嗟に地面を蹴った。

 ひらり、と宙を舞い――アレンの肩へ。がしっ、と爪を軽く立てて固定する。


「……来るか」


(当たり前だろ)


 外に出た瞬間、空気が違った。

 重い。濁っている。


 金色の視界に、はっきりと見える。

 広場の中央に、黒い塊。それは霧の獣のようだった。


 輪郭は曖昧だが、牙のような突起がある。

 中心に赤い核が脈打っている。


 (魔獣じゃない)


 即座に分かる。


 魔獣は、澄んだ流れを持っている。

 あれは違う。


 あれは――淀みの塊。


「なんだ……見たことがないな、新種か?」


 アレンが呟く。


 周囲には倒れた人、逃げ惑う人。


 オレは肩の上で前足をばしばしと動かす。


 違う。違うぞ。


(魔獣じゃない。きっと他の何かよくないものだ)


 アレンは一歩前に出た。


 風が巻き起こる。

 足元に薄く青い光が走る。


 風魔法。


 靄の獣がこちらを向いた。赤い核がぎらりと光る。


 跳ぶ。


 速い。


 だが――次の瞬間、剣が閃いた。


 風をまとった一閃。


 黒い身体が真っ二つに裂ける。

 霧が飛散する。


 だが、霧はすぐに再結集する。


「……厄介だな」


 アレンの声は冷静だ。


 オレは目を凝らす。


 赤い核。


 あそこだ。核に集中している、異様な気配。


 オレは前足でアレンの頬を叩く。そして視線を核へ。


「そこか」


 理解が早い。


 アレンは地面を蹴る。


 一瞬で距離を詰める。


 獣が爪のような霧を振るう。


 だが風の障壁がそれを逸らす。


 次の瞬間――剣が、赤い核を正確に貫いた。


 ぱきん、と硬質な音がした。

 

 赤い光が砕ける。

 霧が一気に崩れ落ちる。


 そして間も無く、黒い靄は、しゅう、と音もなく消えた。


 オレの目には黒い霧がキラキラとした光に変わって、光の風に加わったように見えた。


 広場に、静寂が戻る。

 遅れて、ざわめきが押し寄せる。


「倒した……?」

「アレンさんだ……!」


 安堵と敬意の混ざった視線。


 アレンは剣をしまった。


 オレは肩の上で、じっと地面を見る。


 この場所。


(ここ、最初に気持ち悪いのを見たとこと近い)


 間違いない。


 アレンは周囲の負傷者に目を向ける。


「動ける者は離れろ。触れられた場所を洗え」


 声は落ち着いている。


 混乱は、徐々に収まっていく。

 武器屋のおっちゃんも駆け寄ってきた。


「無事か」

「ああ」


 短い返事。


 オレは再び広場を見渡す。


 黒い霧は完全に消えたが、広場の空気はすぐには元に戻らない。

 

 人々は遠巻きに様子をうかがい、倒れた屋台を起こし、怪我人を抱えて慌ただしく動いている。


 さっきまで漂っていた濁った気配は晴れているが、人の心の不安はまだ残っているようだった。

 

 おそらく普通の人間には何も見えていないのだろう。だが、確かにそこにあったものは、ただの魔獣とは違っていた。


 アレンは剣を納めたあと、すぐに周囲の確認に移った。


 倒れている男のそばに膝をつき、触れられた腕の様子を観察する。

 

 黒く変色していた部分は、霧が消えたおかげなのか、肌色を取り戻していた。でも傷は残っているので、皮膚の下にまだ鈍い違和感が残っているように見える。


 アレンは小さく息を吐き、手のひらに淡い光を宿した。水の魔法で濡らし、患部を丁寧に洗い流す。魔法といっても派手なものではない。必要な分だけ、正確に使う。その動きに無駄はなく、見ていて妙に安心する。


 オレは肩の上から広場全体を見渡した。


 さっきまで確かに存在していた赤い核は砕け散り、黒い霧は消え、光となって流れていった。


 路地裏の方を向く。


 (やっぱあそこにあった気持ち悪いの、なくなってんだよな)


 魔獣なら、もっと生命の流れがある。澄んだマナが循環している。だがあれは違った。あれは、きっと、あそこにあった淀みが集まり、形を持ったものだ。


「助かった……本当に助かった」


 屋台の店主が何度も頭を下げる。周囲の人間も、口々にアレンへ礼を述べている。


 その視線の中には、尊敬と安堵が混ざっていた。オレはそれを見ながら、胸の奥が少しだけ誇らしくなる。


 ほら見ろ、オレの隣にいる男はすごいんだぞ、と言いたくなる気分だ。

 

 もちろん口には出せないから、代わりにしっぽをゆらりと揺らす。


「さっきのは新種の魔獣か……?」


 誰かがそう呟く。アレンはすぐには答えなかった。


 立ち上がり、問題の石畳へと歩み寄る。オレは視線を落とし、その地点をもう一度凝視する。


 アレンはその場所に手をかざし、目を細めた。彼の目には見えていないはずだが、何かが違うことは感じ取っていたのだろう。


「魔獣……ではない」


 低い声。断定ではない。だが、違和感を認めている響きだった。


 アレンの指先は一瞬だけ剣の柄を撫でた。無意識だろう。


 オレは思わず前足で彼の肩を軽く叩き、視線を石畳へと向ける。再び、違う、違うぞ、と伝えるように。


 アレンは横目でオレを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。


「お前もそう思うか」


 全部は伝わらない。それでも、半分くらいは届いている。その感覚が妙に嬉しい。


 オレはふんっと小さく鼻を鳴らし、再び広場を見渡した。


 ギルドから駆けつけた冒険者たちが周囲の警戒に当たり、怪我人を運び出していく。


 さっきまで混乱していた広場は、少しずつ日常へと戻り始めていた。だが、オレには分かる。


 あれは偶然湧いた魔獣ではない。もともと兆候はそこにあった。それがこの場所で膨れ上がったんだ。


 アレンは武器屋のおっちゃんに軽く頷き、周囲の後始末を手伝いに戻った。

 

 散らばってしまった商品を集める。その動きは戦闘時と同じく無駄がない。


 強いだけでなく、こうして自然に手を貸すところが、この男の評価を高めているのだろう。周囲の冒険者たちも、彼の指示に逆らうことなく従っている。


「さすがSランクだな……」


 小声でそう言う若い冒険者の声が聞こえた。


 オレは耳をぴくりと動かし、少しだけ得意げになる。


 オレのアレンだぞ、と心の中で胸を張る。もちろん、オレが所有しているわけではない。だが、隣にいるのはオレだ。


 片付けがひと段落すると、アレンはもう一度石畳を見下ろした。


 夕方の光が差し込み、問題の地点を赤く照らしている。ただの石畳だ。


 アレンは軽く息を吐き、広場の人々に向けて言った。


「今日はもう問題ないだろう。もしまた異変があればすぐギルドへ知らせろ」


 短い指示だが、安心感がある。人々は頷き、少しずつ散っていく。


 オレはアレンの肩に飛び乗って体勢を整え、広場を最後にもう一度だけ見渡した。


 金色の瞳に映るのは、夕暮れに染まる町。そして、横を向けば黒髪の竜人の横顔。


 すげえな、と改めて思う。


 あんな得体の知れないものを、迷いなく斬り伏せる。しかも、驕らない。騒がない。いつも通りだ。オレはその横顔を見上げ、小さく息をついた。頼もしい。


 アレンが歩き出す。


 ギルドへ報告に向かうのだろう。オレは肩の上で静かに身を低くし、町の空気を感じ取る。


 風が吹き、夕暮れの匂いが漂う。広場は表面上、平穏を取り戻した。だがオレの目には、世界が少しだけ違って見える。

 

 見えないはずのものが見えるということは、安心だけでは終わらない。知ってしまった以上、見過ごすことはできない。


 恐さはある。それでも今は、安心できるやつの側にいる。オレは小さく姿勢を正し、しっぽを静かに巻いた。


 変わらないアレンの静かな光に、ひどく安心した。


 それでも、オレはその場所から目を逸さなかった。


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