8話
その異変に、最初に気づいたのは子どもだった。
広場の端。
屋台が並び、夕暮れ前の雲間から差す柔らかな光が石畳を染めている。
ふと、空気が歪んだ。
揺らぎは小さかった。
だが、次の瞬間――
小さな、黒光りするボールのようなものが空中に現れた。
「……なに、あれ?」
子どもの声に、周囲の大人たちが振り向く。
暗い靄がまとわりつき、それはゆっくりと形を持ち始めた。
四足。
だが輪郭は定まらない。
身体は黒い霧でできているようで、全体が鈍く脈打っている。
誰かが呟いた。
「魔獣……?」
次の瞬間、それは跳ねた。
近くの屋台が弾き飛ばされる。木片が宙を舞う。
悲鳴。
人々が一斉に散る。
「逃げろ!」
だが靄は速い。
逃げ遅れた男の腕を掠める。
触れた部分が黒く染まり、男が倒れ込む。
ざわめきは恐慌へ変わった。
誰も、あれが何なのか理解できないまま。
それは広場の中央で、蠢いていた。
まるで、何かを探すように。
***
「……ん?」
武器屋の中で、アレンがわずかに顔を上げた。
外から届く、遠い悲鳴。
オレの耳が先に反応する。ぴくり、と。
次の瞬間、ぞわりと背筋を走る感覚。
あの揺らぎ。
広場の端で見た“嫌な感じ”が、一気に膨れ上がっている。全身の毛が逆立つ。
(やばい)
オレは即座に立ち上がる。
ざわざわとした外の騒動が、小さく聞こえる。
おっちゃんも顔をしかめる。
「……騒がしいな」
悲鳴がはっきり聞こえた。
アレンは迷わなかった。
剣を腰に固定し直し、外套を翻す。
「見てくる」
低い声。
武器屋のおっちゃんが頷く。
「気をつけろ」
扉が勢いよく開く。
オレは咄嗟に地面を蹴った。
ひらり、と宙を舞い――アレンの肩へ。がしっ、と爪を軽く立てて固定する。
「……来るか」
(当たり前だろ)
外に出た瞬間、空気が違った。
重い。濁っている。
金色の視界に、はっきりと見える。
広場の中央に、黒い塊。それは霧の獣のようだった。
輪郭は曖昧だが、牙のような突起がある。
中心に赤い核が脈打っている。
(魔獣じゃない)
即座に分かる。
魔獣は、澄んだ流れを持っている。
あれは違う。
あれは――淀みの塊。
「なんだ……見たことがないな、新種か?」
アレンが呟く。
周囲には倒れた人、逃げ惑う人。
オレは肩の上で前足をばしばしと動かす。
違う。違うぞ。
(魔獣じゃない。きっと他の何かよくないものだ)
アレンは一歩前に出た。
風が巻き起こる。
足元に薄く青い光が走る。
風魔法。
靄の獣がこちらを向いた。赤い核がぎらりと光る。
跳ぶ。
速い。
だが――次の瞬間、剣が閃いた。
風をまとった一閃。
黒い身体が真っ二つに裂ける。
霧が飛散する。
だが、霧はすぐに再結集する。
「……厄介だな」
アレンの声は冷静だ。
オレは目を凝らす。
赤い核。
あそこだ。核に集中している、異様な気配。
オレは前足でアレンの頬を叩く。そして視線を核へ。
「そこか」
理解が早い。
アレンは地面を蹴る。
一瞬で距離を詰める。
獣が爪のような霧を振るう。
だが風の障壁がそれを逸らす。
次の瞬間――剣が、赤い核を正確に貫いた。
ぱきん、と硬質な音がした。
赤い光が砕ける。
霧が一気に崩れ落ちる。
そして間も無く、黒い靄は、しゅう、と音もなく消えた。
オレの目には黒い霧がキラキラとした光に変わって、光の風に加わったように見えた。
広場に、静寂が戻る。
遅れて、ざわめきが押し寄せる。
「倒した……?」
「アレンさんだ……!」
安堵と敬意の混ざった視線。
アレンは剣をしまった。
オレは肩の上で、じっと地面を見る。
この場所。
(ここ、最初に気持ち悪いのを見たとこと近い)
間違いない。
アレンは周囲の負傷者に目を向ける。
「動ける者は離れろ。触れられた場所を洗え」
声は落ち着いている。
混乱は、徐々に収まっていく。
武器屋のおっちゃんも駆け寄ってきた。
「無事か」
「ああ」
短い返事。
オレは再び広場を見渡す。
黒い霧は完全に消えたが、広場の空気はすぐには元に戻らない。
人々は遠巻きに様子をうかがい、倒れた屋台を起こし、怪我人を抱えて慌ただしく動いている。
さっきまで漂っていた濁った気配は晴れているが、人の心の不安はまだ残っているようだった。
おそらく普通の人間には何も見えていないのだろう。だが、確かにそこにあったものは、ただの魔獣とは違っていた。
アレンは剣を納めたあと、すぐに周囲の確認に移った。
倒れている男のそばに膝をつき、触れられた腕の様子を観察する。
黒く変色していた部分は、霧が消えたおかげなのか、肌色を取り戻していた。でも傷は残っているので、皮膚の下にまだ鈍い違和感が残っているように見える。
アレンは小さく息を吐き、手のひらに淡い光を宿した。水の魔法で濡らし、患部を丁寧に洗い流す。魔法といっても派手なものではない。必要な分だけ、正確に使う。その動きに無駄はなく、見ていて妙に安心する。
オレは肩の上から広場全体を見渡した。
さっきまで確かに存在していた赤い核は砕け散り、黒い霧は消え、光となって流れていった。
路地裏の方を向く。
(やっぱあそこにあった気持ち悪いの、なくなってんだよな)
魔獣なら、もっと生命の流れがある。澄んだマナが循環している。だがあれは違った。あれは、きっと、あそこにあった淀みが集まり、形を持ったものだ。
「助かった……本当に助かった」
屋台の店主が何度も頭を下げる。周囲の人間も、口々にアレンへ礼を述べている。
その視線の中には、尊敬と安堵が混ざっていた。オレはそれを見ながら、胸の奥が少しだけ誇らしくなる。
ほら見ろ、オレの隣にいる男はすごいんだぞ、と言いたくなる気分だ。
もちろん口には出せないから、代わりにしっぽをゆらりと揺らす。
「さっきのは新種の魔獣か……?」
誰かがそう呟く。アレンはすぐには答えなかった。
立ち上がり、問題の石畳へと歩み寄る。オレは視線を落とし、その地点をもう一度凝視する。
アレンはその場所に手をかざし、目を細めた。彼の目には見えていないはずだが、何かが違うことは感じ取っていたのだろう。
「魔獣……ではない」
低い声。断定ではない。だが、違和感を認めている響きだった。
アレンの指先は一瞬だけ剣の柄を撫でた。無意識だろう。
オレは思わず前足で彼の肩を軽く叩き、視線を石畳へと向ける。再び、違う、違うぞ、と伝えるように。
アレンは横目でオレを見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「お前もそう思うか」
全部は伝わらない。それでも、半分くらいは届いている。その感覚が妙に嬉しい。
オレはふんっと小さく鼻を鳴らし、再び広場を見渡した。
ギルドから駆けつけた冒険者たちが周囲の警戒に当たり、怪我人を運び出していく。
さっきまで混乱していた広場は、少しずつ日常へと戻り始めていた。だが、オレには分かる。
あれは偶然湧いた魔獣ではない。もともと兆候はそこにあった。それがこの場所で膨れ上がったんだ。
アレンは武器屋のおっちゃんに軽く頷き、周囲の後始末を手伝いに戻った。
散らばってしまった商品を集める。その動きは戦闘時と同じく無駄がない。
強いだけでなく、こうして自然に手を貸すところが、この男の評価を高めているのだろう。周囲の冒険者たちも、彼の指示に逆らうことなく従っている。
「さすがSランクだな……」
小声でそう言う若い冒険者の声が聞こえた。
オレは耳をぴくりと動かし、少しだけ得意げになる。
オレのアレンだぞ、と心の中で胸を張る。もちろん、オレが所有しているわけではない。だが、隣にいるのはオレだ。
片付けがひと段落すると、アレンはもう一度石畳を見下ろした。
夕方の光が差し込み、問題の地点を赤く照らしている。ただの石畳だ。
アレンは軽く息を吐き、広場の人々に向けて言った。
「今日はもう問題ないだろう。もしまた異変があればすぐギルドへ知らせろ」
短い指示だが、安心感がある。人々は頷き、少しずつ散っていく。
オレはアレンの肩に飛び乗って体勢を整え、広場を最後にもう一度だけ見渡した。
金色の瞳に映るのは、夕暮れに染まる町。そして、横を向けば黒髪の竜人の横顔。
すげえな、と改めて思う。
あんな得体の知れないものを、迷いなく斬り伏せる。しかも、驕らない。騒がない。いつも通りだ。オレはその横顔を見上げ、小さく息をついた。頼もしい。
アレンが歩き出す。
ギルドへ報告に向かうのだろう。オレは肩の上で静かに身を低くし、町の空気を感じ取る。
風が吹き、夕暮れの匂いが漂う。広場は表面上、平穏を取り戻した。だがオレの目には、世界が少しだけ違って見える。
見えないはずのものが見えるということは、安心だけでは終わらない。知ってしまった以上、見過ごすことはできない。
恐さはある。それでも今は、安心できるやつの側にいる。オレは小さく姿勢を正し、しっぽを静かに巻いた。
変わらないアレンの静かな光に、ひどく安心した。
それでも、オレはその場所から目を逸さなかった。




