16話
草むらがガサガサッと大きく揺れた。低い体勢の影が、ゆっくりと姿を現す。
灰色の毛並み、引き締まった体躯、鋭い耳。狼だ。
アレンはもう一歩前へ出た。剣にかけた手はそのまま、だが抜かない。視線だけで距離を測る。
狼は数歩進み、止まった。黒色の瞳がこちらを見つめる。唸り声はない。
そして、首をかしげ――「……くーん」
森の空気が、一瞬で変わった。
(は?)
「……え?」
男が間の抜けた声を出す。ミレアがぱちぱちと瞬きをする。
「わんちゃん?」
狼はもう一度、きゅーんと小さく鳴いた。耳が後ろに倒れ、尻尾が、そっと左右に揺れる。
アレンの目がわずかに細くなった。
「……敵意は、なさそうだな」
一度瞬きをしてから、剣から手を離す。
オレは耳を立てた。おい、緊張返せ。
狼はゆっくりと近づいてくる。鼻先を上げ、匂いを嗅ぐ。オレと目が合った。
数秒の静止。
次の瞬間、ぐい、と顔を寄せてきた。
(近い近い近い)
くんくんと執拗に匂いを嗅ぐ。やめろ、くすぐったい。オレが尾をぱた、と振ると、狼は嬉しそうにもう一度「くーん」と鳴いた。
……気に入られた? なんでだ。
「首輪が……ある」
男が指差す。
確かに、狼の首には革の首輪が巻かれていた。使い込まれているが、手入れはされている。
アレンが慎重に近づき、狼の目を見たまましゃがむ。
「触れるぞ」
低く告げると、狼は大人しく動きを止めた。アレンは首輪に触れ、金属の小さな板を確かめる。
「タグだな」
「タグ?」
男が覗き込む。アレンは刻まれた文字を読む。
「……ヴァレンシア王国、王都在住。ルーク・ハルヴァルト」
男が目を見開いた。
「王国の……?」
「ああ。おそらく飼い主の名だろう」
狼はその名前に反応するように、尻尾を大きく振った。
「ルークさん……?」
ミレアが真似して呼ぶと、狼は嬉しそうに鼻を鳴らす。どうやら本当に飼い狼らしい。
「迷ってここまで来たのかもしれませんね」
男が続けて言う。
「最近見かけたっていう噂は、この子だったのか」
「その可能性は高いな」
アレンは立ち上がる。
「いずれにせよ、村を脅かす存在ではない」
男は安堵の息を吐き、ミレアの頭を撫でた。
「よかった……本当に狼じゃなくて……いや、狼だけど……」
混乱している。
オレはもう一度狼を見上げる。黒色の瞳が真っ直ぐこっちを見ている。敵意はない。むしろ、仲間を見る目みたいな。狼はそっとオレの横に座った。距離が近い。体温が伝わる。
……おい、なんでそんな自然に隣座るんだ。
「懐かれたな」
アレンが小さく笑いながら言う。
知らん。オレはそっぽを向く。しっぽがぱたん、ぱたん、と地面に当たる音がする。
「村へ戻ろう」
アレンが告げる。
「村にミレアの無事を知らせるのが先だ」
「うん!」
少女は元気に頷き、狼を見上げる。
「いっしょに来る?」
狼は「くーん」と鳴いて、当たり前のようについてきた。……行くらしい。
村へ戻ると、人々が広場に集まっていた。
「ミレア!」
母親が駆け寄り、強く抱きしめる。涙と笑顔が混ざる声。
「もう、心配したのよ……!」
「ごめんなさい」
ミレアは素直に謝った。でもどこかのんびりしている。
村人たちの視線が、次に狼へと向く。
「お、おい……」
「狼じゃないか」
ざわめきが広がる。
「落ち着け」
アレンが前に出る。
「飼い狼のようだ。首輪とタグがある。王都の人間のものだ」
狼の首に付いたタグを見せると、ざわめきは次第に静まった。
「王都……」
「じゃあ、迷い込んだだけか」
「噂の狼騒ぎは、この子のことだったんだな」
ほっとした空気が広がる。狼は村人の視線にも動じず、ただオレの隣で座っている。完全に懐かれたな、オレ。……まあいいか。
その夜、村ではささやかながら食事が振る舞われた
「お礼です」とパンや温かいスープが並ぶ。
ミレアは元気いっぱいに今日の出来事を話し、母親は何度もアレンに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。本当に、ありがとうございました」
「礼は不要だ。無事でよかった」
短いが、確かな言葉。
焚き火の傍で、狼は丸くなっている。オレのすぐ隣で。
近いって言ってるだろ。だが、まあ不思議と嫌じゃない。
狼は静かに息をし、時折こちらを見て尻尾を揺らす。
「王都へ向かうんですよね」
男が言う。
「ああ」
アレンが頷く。
「ヴァレンシア王国へ」
「なら、その狼も……」
「ああ。飼い主に返す」
オレは焚き火の揺れる炎を見る。目的地が、少しだけ現実味を帯びた。王都。ヴァレンシア王国。そこに、この狼の飼い主がいる。
狼はふいに顔を上げ、オレの頬に鼻先を押し当て、ぺろりと舐めてきた。……だから近いって。けれど、ほんの少しだけ、温かい。
「……一時同行だな」
アレンがオレたちを見ながら小さく呟く。
狼の耳がぴくりと動く。オレは目を細めた。
旅は、少し賑やかになるらしい。




