13話
今日のお昼に猫の日SS投稿してます。
本日2話目なのでご注意を。
森ってやつは、思ってたよりずっと濃い。
町を出て数日が経った。もう振り返っても、あのオレが住んでいた町は見えない。
昨日までは街道沿いの、ある程度整えられた土の道を歩いていたが、今日は森の中だ。こちらの方が近道らしい。
森は土の匂いが深くて、湿った葉の匂いが重なって、風さえも緑の匂いがする。オレは森の入口に足を踏み入れた瞬間、ひげの先がぴりっとした。空気の中を流れるマナが、町の中よりも太い。速い。ところどころで小さな渦を巻いていて、まるで森全体が呼吸してるみたいだ。
「……クロ」
後ろから低い声がする。でも止まれない。
ふかふかの苔を踏んだ瞬間、肉球が沈む感触が楽しくて、気づけば倒木に飛び乗っていた。視界が少し高くなる。
枝が交差して、光が斑に落ちて、葉の隙間をマナがすり抜けていく。
やばい。森、楽しいなオイ。
オレは尻尾を高く上げたまま、次の幹へ飛び移ろうとして――がさ、と小さな音に止まった。
耳が先に動く。視線を落とす。いた。小さい茶色の塊。
尻尾がやたらとふわふわで、頬がほんのり膨らんでいる。大きさはネズミくらいだ。でも違う。あいつのまわりだけ、光が薄く歪んでいる。体の中心あたりに光が集まっている。魔獣だ。
マナが、丸い形をとっているように見える。
へえ、そういう感じか。
オレは姿勢を低くして距離を測った。跳ぶなら今。脚に力を溜める。
飛ぶ――その直前で、首の後ろがふわっと持ち上がった。
「……狩ろうとするな」
低くて短い声。アレンの手だ。オレはぶら下がったまま振り返る。
(いや別に腹減ってるとかじゃねえよ?)
狩りっていうか反射っていうか。
だがアレンは淡々と視線を森の小動物へ戻した。
「あれはスクルミアだ。小さな空間魔法を持ってる。木の実を溜め込むための固有魔法だ」
言われて改めて見ると、確かにあいつのまわりの歪みは袋の形をしている。森のマナをちょっと借りて、ちょっと曲げて、隠している感じ。へえ、便利じゃん。
「昔、金貨を持ってる個体がいると広まって、乱獲された」
アレンの声色は大きくは変わらない。でも、ほんの少しだけ温度が下がる。
オレはスクルミアを見る。金貨を生むわけじゃない。ただ拾った物を入れているだけだと、アレンは続けた。
森の中で拾った光るものを、たぶん綺麗だから、なんとなく面白そうだから、しまっているだけなんだろう。なのに人間は、それを理由に乱獲し、スクルミアは数を減らした。
スクルミアは逃げない。オレとアレンを見ている。敵かどうかを測る、ただの獣の目だ。空間の揺らぎは澄んでいて、森の流れと喧嘩していない。きれいだな、と素直に思った。
アレンがオレを地面に下ろす。
「……逃してやろう」
オレは尻尾をゆらりと振ってから、わざと視線を逸らした。だから、別に食べようと思ったわけじゃないっての。
すると、ふわ、とスクルミアのまわりの空間がやわらかく波打った。次の瞬間、ぽとりと木の実が落ちる。
オレの前に、ちょうどいい距離で。
(え、なにそれ)
スクルミアは一瞬だけこちらを見て、幹を駆け上がり、葉の向こうへ消えた。素早い。アレンが小さく息を吐く。
「……礼だな」
へえ、わかってんじゃん。オレは木の実をくわえた。少し硬いが、噛めば甘い。悪くない。
森の夕方は早い。さっきまで斑だった光が、いつの間にか細くなって、気づけば足元が影で満ちている。
路地裏の夜とは違う。あれは人の匂いが残る夜だ。ここは森の夜。どこから何が現れてもおかしくない静けさが、じわじわと広がっていく。正直、ちょっとだけ背中がぞわっとする。
アレンは慣れた手つきで木の枝を組み、魔法で火を起こした。ぱち、と小さな音とともに炎が立ち上がる。焚き火の匂いが森の湿気を押し返す。あったけえ。
オレは何でもないふりをして火の近くへ寄った。
「寒いか」
アレンが言う。
ちげえよ、と言いたいが、言えない。代わりに外套の端を前足でちょいと引く。察しろ。
アレンは無言で外套を少し持ち上げた。中に滑り込む。背中側から、じんわりとした熱が伝わる。
森のマナが穏やかに流れ、炎がゆらゆらと揺れ、その中心にアレンの青い目が静かに光る。
焚き火の音は小さいのに、やけに存在感がある。ぱち、と弾けるたびに、森の闇が一歩下がるみたいだ。
オレは外套の中で丸まりながら、半分だけ目を開けて炎を見ていた。眠い。でも完全には寝ない。森の夜は初めてだしな。警戒心ってやつは一応ある。
アレンが荷袋を開く音がする。革の擦れる音。次に、干し肉の匂い。あ、いいやつだそれ。オレは無意識に鼻をひくつかせる。
「……起きてるな」
低い声が、ちょっとだけ笑った気配を含む。笑ってるだろ今。オレはゆっくり顔を出す。
別に食い意地張ってねえし、みたいな顔を作る。だが鼻は正直だ。干し肉の塩気と燻製の匂いが、焚き火の熱でやわらかくなる。
アレンは串に刺した干し肉を、炎から少し離した位置で炙る。直火じゃない。焦がさない距離。火の扱いがやけに丁寧だ。肉の表面がじわっと汗をかいて、脂が溶け出す。
匂いが一段濃くなる。オレの尻尾が、勝手にぱたんと揺れた。
「……ほら」
短く言って、アレンは干し肉を指で裂く。剣ダコのある分厚い指先なのに、動きは驚くほど繊細だ。繊維に沿って、無理に引きちぎらない。猫の歯で食べやすい細さに。
そこまで考えてるのかよ。オレは何も言わないけど。
差し出された肉を一口でくわえる。
(あ、やべ、うま)
炙った分だけ柔らかくなってるし、脂がほんのり甘い。噛むたびに味が広がる。思わず尻尾がゆれる。
「冷えたままだと固いだろ」
ぽつり、とアレンが言う。炎越しに青い目が揺れる。自分の分も同じように炙りながら、何でもないことみたいに続ける。
「森は夜、温度が落ちる。俺の周囲に温度調節の魔法をかける。あまり離れるなよ」
(へえ、気遣いの塊か?)
オレは肉を咥えたまま、ちらっとアレンを見る。寡黙なくせに、こういうところだけ無駄に細かい。
いや、無駄じゃねえな。助かるし。
アレンは続ける。
「明日の昼過ぎには、予定の村に着くだろう」
オレが食べ終わると、アレンはもう一度小さく裂いた肉を差し出す。
「もう少し食べろ」
命令でもなく、提案でもなく、ただ当然みたいな声音。
オレは一瞬迷うふりをしてから、ありがたくいただく。うまい。森の匂いと混ざって、なんだか特別な味がする。
食べ終わると、アレンは指先を軽く拭い、焚き火の薪を一本足した。炎が少しだけ高くなる。自分用か、今度はパンを炙り出した。
「……森はどうだ」
低い声が、ぽつりと落ちる。オレは顔を上げてその目を見た。
なんだ、心配してんのか。
オレは小さく鼻を鳴らし、丸くなる。嫌いじゃねえ。むしろ、かなり好きだ。
森のマナは澄んでいて、スクルミアの魔法は綺麗で、奪わなくても腹は満ちる。路地裏とは違う。ここは、やさしい。
喉が勝手に鳴る。ごろ、と低い音が自分でも少し恥ずかしい。アレンは何も言わない。ただ外套の端を少しだけ整えた。
炎の音と、遠くの魔獣の足音と、葉が擦れる音が重なる。けれど怖くはない。この体温があるからだろうか。オレは目を閉じる。
悪くない。いや、かなりいい。
そう思いながら、ゆっくりと眠りに落ちた。




