間話(アレン視点)
俺の朝は早い。
夜明け前に目が覚めるのは癖だ。長く生きていれば自然とそうなる。光が差す前のわずかな静寂は、戦場でも町中でも、いつも変わらぬ落ち着きをもっている。
隣から、すう、すうと規則正しい寝息が聞こえる。
クロは丸くなって眠っていた。
首元の銀の輪が、薄闇の中でかすかに光を拾っている。
起こさないように静かに起き上がり、窓辺へ歩く。外はまだ薄青い。街は眠っている。
静かだ。——本当に、静かだ。
あの黒い霧の騒ぎから数日。町は落ち着きを取り戻した。だが、あの異形は偶然ではない。直感が告げている。
原因は分からない。だが、あれは自然発生ではなかった。
そして。
あの場で最初に“異変”を察したのは、俺ではない。
クロだった。
最初に違和感を覚えたのは、あの霞のときだ。
広場に立ち込めた黒い瘴気。人々は恐怖し、混乱していた。俺も異様な気配は感じていたが、核の位置は掴めなかった。
だがクロは。
迷わず、視線を一点に固定した。
あそこだ、と言わんばかりに。
あれが偶然であるはずがない。
——見えている。
次はマジックバックのときだ。
パンを入れたとき、あいつは身を乗り出して覗き込んだ。ただの好奇心かと思った。だが違う。
術式の展開に合わせて、視線が動いていた。
風の流れを追うように。
普通の動物が、あの反応をするはずがない。
そして決定的だったのは、水の生成魔法だ。
あれは簡素な魔法だ。だが、流れはある。整流し、変換し、定着させる。
クロは水そのものではなく、その“流れ”を見ていた。
目が動く。
俺が操るマナの流れに合わせて、わずかに焦点が変わる。
偶然ではない。観察している。
昨夜、それを確かめた。
水を生成したとき、あいつは無意識に目で追った。
隠そうともしなかった。
そして俺が問うと、逃げなかった。
頷いた。あれで十分だ。
マナが見える。そう考えるのが自然だろう。
だがそれ以上のことは考えない。
こいつは何かの変異か?
それとも別の存在か?
そこまで踏み込む必要はない。
クロは、可愛いやつだ。
元気で、よく食い、よく寝て、好奇心も旺盛な猫だ。
それでいい。
俺は窓を少し開け、朝の空気を吸い込む。
冷たい。だが澄んでいる。
マナが見える者がいるのは、悪いことではないだろう。
俺は強い。少なくともそう言われる位置にいる。
だが万能ではない。
出来ないことは、確かにある。
見えないからこそ、失ったこともある。
ほんの一瞬、古い記憶がよぎる。
霧の中。血の匂い。届かなかった声。
俺が気づけなかった“何か”。
……いや。
今は考える必要はない。
隣で丸くなって眠っているクロのことを思う。
小さな黒猫――あの目に映るらしいマナの流れ。
魔法を使う魔獣は数えきれないほど見てきた。
だが、マナそのものを視る存在は――250年以上生きてきて初めてだ。
それを抜きにしても、クロは、言葉を持たずとも理解し合える相手のような気がする。無邪気で、でも確かにこちらを気遣う目をしている。
「……クロ、面白いな」
静かに、呟く。声は低く、窓に反射して宙に溶けていった。
クロのことを考えるたび、俺の心はふと柔らかくなる。
あの日、路地裏であの暴走に巻き込まれ、弱っていたクロを見つけたときのこと。あの小さな体に抱えきれないほどの混乱と恐怖があっただろう——でも、同時に、わずかな光を放っているようにも感じた。
魔術暴走のあの瞬間、クロの中に何かが生まれたのだろうか。魔力を視認する力、そしてそれに順応する知性、か?それとも、この子が生来持つ性質なのか。
俺は、少し微笑む。
「……それにしても、よく生き延びたものだ」
クロの強運が功を奏したのだろうか。普通の猫ならあの暴走で命を落としていたかもしれない。
風が冷たく肌を撫でると、思い起こされる。
竜人として生まれ、数百年を生きてきた時間。
友人と谷を飛び出した若い頃、外の世界に憧れを抱き、自由を求め、旅を続けてきた日々。
あの時の自分と同じように、クロもまた新しい世界に足を踏み入れたばかりだ。
竜の谷の仲間たちの顔が浮かぶ。
穏やかな谷。永ながい寿命。争いの少ない世界。
だが——俺は、そこに留まれなかった。
「……やっぱり、旅はやめられないな。こんな出会いがあるのだから」
俺は、椅子に深く腰掛けたまま、空の彼方を見上げる。静かだ。
ふとクロが身じろぎをする。何か夢でも見ているのだろうか、うにゃ。と小さな鳴き声がした。
「……ふっ」
思わず息が漏れる。
机の上の地図に目を落とす。明日からの移動ルート、立ち寄る村や街。危険箇所も、道中の水場も、すべて頭に入っている。必要な情報は集まっている。
「……準備は万端だ」
クロもきっと楽しんでくれるだろう。いや、むしろクロがいなければ、ここまで明日からの旅の楽しみは広がらなかったかもしれない。
金色の瞳が、ゆっくりと開く。
まだ眠たげだ。
俺を見る。
しばらく、視線が交わる。
こいつは言葉を持たない。
だが、分かる。
「出発するぞ、クロ」
短く告げると、耳がぴんと立つ。しっぽが一度、揺れる。
ああ。やはり、解ってりかいしている。
宿を出るとき、女将は笑っていた。
ラドは大声で見送った。
町は穏やかだ。
だが街道に出れば、何があるか分からない。
森も、山も、川も、魔獣も。
そして——あのような異形が再び現れない保証もない。
肩の上で、クロが静かに周囲を見ている。
ただの猫ではない。だが、それでいい。
こいつがこいつならそれでいい。
その眼を利用するつもりはない。
監視するつもりもない。
ただ、隣にいるなら——
「それだけでいい」
小さく呟く。
クロは耳を動かしただけだった。
石畳が途切れる。土の道へと変わる。
街の匂いが薄れ、草と土の匂いが濃くなる。
世界が、広がる。
俺は歩く。肩には黒猫。
視線の先には、これから進む道。
確信がある。
この旅は、いやこれからの旅路は、良いものになるだろう。
ひとりで旅していた時間よりも、ずっと。
隣に、クロがいる限り。




