11話
この町で過ごす最後の夜は、驚くほど静かだった。
窓の外では、遠くで誰かの笑い声がかすかに響き、風が屋根を撫でている。
少し前に騒ぎがあったとは思えないほど穏やかだ。広場も、ギルドも、もういつもの調子に戻っている。
あの黒い霞は、結局それきり現れなかった。
宿の部屋には、旅支度の荷がまとめられている。干し肉も、パンも、薬草も、全部あのポーチの中だ。明日の早朝には出るらしい。
アレンは椅子に腰掛け、低い声で明日の予定を整理している。
「日の出前に出発する。街道を北へ十日。途中で小さな村に寄る予定だ」
オレはベッドの上で丸くなりながら、その声を聞いている。
「目的地は中央平原の国のひとつ、ヴァレンシア王国だ。新たな遺跡が発見されたそうだ」
どこへ行くかは、正直そこまで重要じゃない。隣にいられるなら、それでいい。
「王国内で宿屋をやっている馴染みがいる。そこで過ごす」
えっ、馴染みはだいぶ気になるぞ。
耳をぴくっと動かしてから、パッと顔をあげてアレンを見る。
「最も、最後に行ったのはもう60年ほど前のことだから、今でもやっているかは分からないが」
アレンは話し終えると、ふと手をかざした。
空気が揺れる。
透明な水が、音もなく器へと満ちていく。
淡い光が、空間に流れる。
オレの視線が、自然にそこへ向いた。
水そのものよりも、そこに至る流れのほうがはっきり見える。空間から集まるマナが、整えられ、形を与えられ、水へと変換される。簡潔だが無駄がない。流れは滑らかで、美しい。
アレンは布を浸し、腕を拭いながら、ちらりとこちらを見た。
その視線は、何気ないようでいて、確認する目だった。
オレは気づかないふりをしようとして――やめた。
だって見えるものは、見えるんだ。
水を生む光の流れを、目で追ってしまう。自然と。無意識に。
アレンは静かに布を絞り、ぽつりと呟いた。
「……やはりか」
部屋の空気が、少しだけ変わる。
オレは顔を上げる。
アレンは真正面からオレを見た。
逃げ場はない。でも、怖くはない。
「クロ」
名前を呼ばれる。
短い呼び方。だが、そこにはちゃんと意味がある。
「お前、マナが見えるんだな」
断定に近い問いだった。
部屋は静かだ。外の風の音だけが、遠くで鳴っている。
オレはしばらく黙って、アレンを見つめる。
隠す理由は、ない。
ゆっくりと立ち上がり、ベッドから降りる。とす、と床に着地し、アレンの前まで歩く。水の入った器の縁に前足をかける。そこに残る淡い光を、じっと見る。
それから、アレンを見上げる。
「にゃー」
肯定。
アレンの瞳が、わずかに細まる。
「生まれつきか?」
オレは少し考える。あの暴走の日からだ。最初は何なのか分からなかった。でも今は、はっきりしている。
オレは天井を見上げ、見えるようになったあの日を思い出す。混乱、揺らぎ、光。
アレンは静かに息を吐いた。
「魔獣であるならまだ分かる。ただの動物である猫にそのような能力があるとは聞いたことがないが....」
責める声ではない。
むしろ――少しだけ、安心したような。
「だからあの霧の異形のことも、分かったんだな」
その目は一瞬だけ鋭い光を帯びた気がした。
オレはまた頷く。
全部は説明できない。でも、分かる。
しばらく沈黙が落ちる。
重くはない。考える時間だ。
やがてアレンは、布を机に置き、真っ直ぐオレを見る。
「……なら、これからも教えてくれ」
低い声。
「見えるなら、見ていてくれ。俺が見えないものを」
オレの胸が、じわりと熱くなる。
命令じゃない。利用でもない。
ただ、信頼だ。
オレは一歩近づき、彼の右足に前足をとん、と当てる。
見てるに決まってるだろ。アレンの助けになれるなら。
アレンは小さく笑い、オレの頭をそっと撫でた。優しい手だ。重くない。押しつけない。
「そして俺が、お前の脅威を取り除こう」
その言葉は、静かだった。
だが、揺らがなかった。
守られるだけじゃない。オレも、見て、伝える。支える。そういう関係だ。
部屋の空気が、やわらかくなる。
銀の輪が、オレの首元で淡く光を反射する。アレンの剣の鞘にも、同じ印がある。
相棒。
アクセサリー屋で聞いたその言葉が、自然と浮かぶ。
アレンは立ち上がり、灯りを少し落とした。
「もう休むぞ。明日は早い」
オレはベッドへ戻り、くるりと丸くなる。
今日は、不思議と安心感が強い。
見えていることが、受け入れられたからかもしれない。
「おやすみ、クロ」
穏やかな声が、部屋に落ちる。
オレは目を細め、しっぽを一度だけゆらりと動かした。
(ああ。おやすみ、アレン)
オレの意識はゆっくりと優しい闇に沈んでいった。




